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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、建築家吉田五十八の亡くなった日です。
 吉田五十八(よしだ いそや)は、明治時代中頃の1894年(明治27)12月19日に、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれました。1897年(明治30)に父・太田信義が亡くなり、1909年(明治42)には、母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗るようになります。
 東京開成中学校(現在の開成学園)を経て、1915年(大正4)に、東京美術学校図案科第2部に入学し、岡田信一郎に学び、在学中から住宅や店舗の設計を手がけました。1923年(大正12)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業後、欧米留学に出発し、ヨーロッパの古典建築について学び、1925年(大正14)に帰国します。
 その後、設計活動に入り、伝統的な数寄屋建築を現代化した独自の作風を確立しました。1941年(昭和16)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任し、1944年(昭和19)に東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てます。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任して後進の指導に当たりつつ、住宅以外の劇場、美術館、寺院などの大規模建造物を手がけました。それらの功績により、1952年(昭和27)に日本芸術院賞を受賞、1954年(昭和29)には、日本芸術院会員となっています。
 1962年(昭和37)に東京芸術大学を退官以後は設計活動に専念し、翌年に皇居新宮殿造営顧問となり、1964年(昭和39)には、文化勲章を受章しました。1968年(昭和43)に皇居新宮殿造営顧問を辞め、アメリカ建築家協会名誉会員となったものの、1974年(昭和49)3月24日に、東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇吉田五十八の主要な作品

・「小林古経邸」(1934年)
・「杵屋六左衛門別邸」(1936年)
・「新喜楽」(1940年)
・「東京歌舞伎(かぶき)座」改修(1951年)
・「山口蓬春画室」(1954年)
・「明治座」復興増改築(1958年)
・「梅原龍三郎邸」(1958年)
・「日本芸術院会館」(1958年)
・「五島美術館」(1960年)
・「大和文華館」(1960年)
・ローマの「日本文化会館」(1962年)
・「岸信介邸」(1969年)

☆吉田五十八関係略年表

・1894年(明治27)12月19日 東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれる
・1897年(明治30) 父・太田信義が亡くなる
・1909年(明治42) 母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗る
・1915年(大正4) 東京美術学校図案科第2部に入学する
・1923年(大正12) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業、欧米留学に出発する
・1925年(大正14) 欧米留学から帰国する
・1937年(昭和12) 結婚する
・1941年(昭和16) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任する
・1944年(昭和19) 東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てる
・1946年(昭和21) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任する
・1952年(昭和27) 日本芸術院賞を受賞する 
・1954年(昭和29) 日本芸術院会員となる
・1962年(昭和37) 東京芸術大学を退官する
・1963年(昭和38) 皇居新宮殿造営顧問となる
・1964年(昭和39) 文化勲章を受章する
・1968年(昭和43) 皇居新宮殿造営顧問を辞める、アメリカ建築家協会名誉会員となる
・1974年(昭和49)3月24日 東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細