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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1943年(昭和18)に、  文部省が、「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」を行い、生徒・児童の縁故疎開を促進した日です。
 「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」(そかいにともなうせいとじどうとりあつかいそちにかんするしんぶんはっぴょう)は、1943年(昭和18)も後半になると、マリアナ・パラオ諸島の戦いに勝利したアメリカは、マリアナ諸島に大規模な航空基地を建設し、日本本土の大半がB-29の攻撃圏内になる中で、生徒・児童の縁故疎開を促進するためになされた、文部省による新聞発表でした。
 戦局がますます不利となりつつあった中で、10月25日の次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」がうたわれるようになり、10月31日の「防空法改正」(第三次防空法)では、「疎開」の言葉が登場します。その中で、まず、生徒・児童の縁故疎開が奨励それたもので、12月21日には、東條内閣により、「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などが疎開地区とされ、その後、東京都を中心に学童疎開が進められました。

〇学童疎開(がくどうそかい)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京、大阪、名古屋、横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことです。太平洋戦争も後期になるとアメリカ軍の反撃・侵攻が著しくなり、爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月に、「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。
 ついには、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸しましたが、この島が陥落すると、B-29爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が迫ります。そこで、6月30日に、東条英機内閣は、「学童疎開促進要綱」、「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。
 7月10日には、「帝都学童集団疎開実施細目」が発表され、文部省は、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示すこととなります。そして、8月4日には第1陣として、東京の国民学校初等科3年以上の児童が上野駅から群馬県に出発しました。
 その後も、続々と実施され、8月~9月には、約35万人の児童が、地方の約7,000ヶ所の公会堂、社寺、旅館などに集団疎開することとなります。そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。
 そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すという、いたましい対馬丸事件も発生しています。1945年(昭和20)3月9日には、「学童疎開強化要綱」も閣議決定され、疎開児童数は約45万人に達しました。
 「ポツダム宣言」を受諾し、1945年8月15日に「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)が流されて戦争が終わると翌日に、東京都は学童集団疎開を翌年3月まで継続する方針を明示したものの、10月10日に東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着き、11月には、集団疎開からの大部分の復帰が完了しています。

☆学童疎開関係略年表

<1941年(昭和16)>
・11月20日 芦田均議員が空襲の危険がある東京・大阪で子供を事前に避難させることを推奨する
・12月16日 勅令「防空法施行令」で国民学校初等科児童は、病人、妊婦、老人などと共に事前避難の対象とされる

<1943年(昭和18)>
・10月25日 次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」をうたう
・10月31日 「防空法改正」(第三次防空法)で、「疎開」の言葉が登場する
・12月10日 文部省が、「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」を行い、生徒・児童の縁故疎開が促進される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開地区とする

<1944年(昭和19)>
・3月3日  「一般疎開促進要綱」が閣議決定され、縁故疎開促進の原則が出される 
・3月10日 東京都は「学童疎開奨励ニ関スル件」を通牒し、縁故・養護学園を利用する疎開実施につき指示する
・4月 東京都では縁故のない児童のための疎開学園設置が進められる
・4月2日 学童疎開の内務省案が示される
・4月5日 東京都は、縁故のない学童のため施設を利用する「戦時疎開学園設置要綱」を発表する
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月10日 「帝都学童集団疎開実施細目」が発表される
・7月12日 文部省は「帝都学童集団疎開実施細目」により、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示す
・7月19日 沖縄県は「学童集団疎開準備ニ関スル件」を通牒し、疎開を準備するよう命じる
・7月22日 文部省は「帝都学童集団疎開実施要領」「同実施細目」に準じ、疎開都市として、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の12都市を追加指定する
・8月4日 20万人規模の疎開の第1陣の児童が東京の上野駅を出発する
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈され、死者1,418人(うち学童775人)が出る(対馬丸事件)
・9月25日 全国で子供の集団疎開が41万6,946人となる
・8月~9月 約35万人の児童が、約7,000ヶ所の旅館、寺院などに集団疎開する
・9月 文部省は指令を改め、旅館を宿舎とする場合は一ヶ月25円、その他は23円以内とし、特別の事情ある場合は文部大臣の承認を受けることとする
・9月29日 「疎開学童対策協議会規程」と「疎開学童ニ関スル措置要領」が閣議決定される

<1945年(昭和20)>
・1月12日 「昭和20年度学童集団疎開継続ニ関スル措置要領」を閣議決定し、学童集団疎開期間を当初の予定より1年間延長する
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、初等科3年以上の児童は全員を疎開させ、1、2年の児童は、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象にも加える
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)
・3月16日 「学童疎開強化要綱(追加)」を再度閣議決定し、高等科の児童についても可能なかぎり縁故疎開をすすめるとする
・3月26日 東京都は千葉・茨城・静岡県の集団疎開学童に青森・岩手・秋田へ再疎開命令を出す
・4月 疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定する
・5月1日 集団疎開学童への主要食糧の配給量が減少する
・7月11日 集団疎開学童への主食の配給さらに1割減少、3年生まで252g(1合8勺)、4年生以上354g(2合5勺)となる
・8月16日 東京都は学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を明示する
・10月10日 東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着く
・11月 集団疎開からの大部分の復帰が完了する

<1946年(昭和21)
・3月 神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京する
・11月 沖縄の集団疎開学童が九州から沖縄へ帰還する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1186年(文治2)鎌倉幕府が九州の御家人統率・軍事統括の為の鎮西奉行を設置する(新暦1187年1月21日)詳細
1901年(明治34)田中正造が足尾鉱毒問題について、明治天皇へ直訴しようとする詳細
1943年(昭和18)社団法人日本玩具統制協会から子供向けの「愛国イロハカルタ」が発行される詳細
1948年(昭和23)国連総会で「世界人権宣言」が採択される詳細
1997年(平成9)山陽自動車道(神戸JCT~山口JCT)が全通する詳細