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 今日は、昭和時代中期の1964年(昭和39)に、秋田県の八郎潟干拓の干拓式が行われた日です。
 この日、中央干拓地が初めて一般に公開され、赤城宗徳農林大臣、オランダからヤンセン教授、小畑勇二郎秋田県知事をはじめ、約1,300人もの関係者が出席し、盛大に挙行されました。式典会場周辺では、中央干拓地の堤防を一周する駅伝競走大会、承水路でのボート競技、高校選抜相撲選手権大会などの協賛行事が行われています。

〇八郎潟干拓(はちろうがたかんたく)とは?

 当時、日本第2位の面積の湖だった秋田県の八郎潟を干拓して農地とした事業です。江戸時代や明治時代にも計画が立てられましたが、実現されずにいました。
 太平洋戦争後、食糧増産の急務から、国の直轄事業として「国営八郎潟干拓事業」が立案され、1957年(昭和32)に着工されます。1963年(昭和38)に中央干拓堤防が完成して排水が終了し、翌年には、「大潟村」が誕生しました。
 1968年(昭和43)には道路、用水路、排水路がつくられ、全体の事業は1977年(昭和52)に竣工しました。20年におよぶ歳月と総事業費約852億円の巨費をかけて、総延長52kmの堤防の中に、170.05平方kmの広大な干拓地が出現します。
 当初は、米の増産を目指していましたが、その後の減反政策の下で、苦渋の道を歩むことになりました。この干拓地の一角に、2000年(平成12)にオープンした「大潟村干拓博物館」があり、干拓当時の記録を展示するとともに、大潟村の発展のようす、今日の農業のすがたなどを学ぶことができます。

☆八郎潟干拓関係略年表

・1952年(昭和27) 農林省は食糧の自給率を上げるため、食糧増産5カ年計画を策定、八郎潟干拓計画が検討される
・1953年(昭和28)8月 政府は農林省の担当者をオランダに派遣する
・1953年(昭和28) 八郎潟周辺の漁民たちは、八郎潟干拓反対同盟会を結成する
・1954年(昭和29)4月 オランダよりヤンセン教授とフォルカー技師が来日し、秋田を訪れ、八郎潟を視察する
・1954年(昭和29)7月 「日本の干拓に関する所見」(通称:ヤンセンレポート)を日本政府に提出する
・1957年(昭和32)5月1日 八郎潟干拓事業所が秋田市に設置され、八郎潟干拓工事が着工となる
・1957年(昭和32)12月 「八郎潟干拓事業に伴う漁業補償問題の実施に関する覚書」が結ばれる
・1958年(昭和33) 干拓事業の企画立案や工事の設計・完成検査、予算編成・執行・決算等を行う組織として八郎潟干拓事務所が設けられる
・1958年(昭和33)4月 男鹿市の払戸と船越間の西部地先干拓地堤防工事が始まる
・1958年(昭和33)8月 八郎潟町一日市の沖合で試験堤防工事が着工する
・1958年(昭和33)8月20日 秋田市山王体育館で起工式が挙行される
・1958年(昭和33)9月 日本初のサクション式浚渫船「双竜」が落成する
・1963年(昭和38)11月12日 正面堤防の締め切りが完了する
・1964年(昭和39)9月 比較的水深が浅い八郎潟の西部を中心に、約6,000haの湖底が姿を現す
・1964年(昭和39)9月15日 「干拓式」と題する式典を開催する
・1964年(昭和39)10月1日 秋田県で73番目(当時)の自治体として大潟村が発足する
・1965年(昭和40)5月27日 国営八郎潟干拓地に新農村を建設する「八郎潟新農村建設事業団法」が公布される
・1967年(昭和42) 干拓地に入植が開始される
・1968年(昭和43) 道路、用水路、排水路がつくられる
・1968年(昭和43)4月9日 農場で農場開きの式典が挙行される
・1969年(昭和44) 八郎潟干拓記念秋田農業大博覧会が開催される
・1970年(昭和45) 米の生産調整(減反政策)が開始され、大潟村への入植者公募が中止される
・1973年(昭和48) 入植者公募が再開されたものの、これを最後に打ち切られる
・1977年(昭和52) 全体の事業が竣工する
・1978年(昭和53) 玉川ダム建設保障で例外的に9戸が新規入植する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1305年(嘉元3)第90代の天皇とされる亀山天皇の命日(新暦では10月4日)詳細
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いが起き、東軍が勝利する(新暦10月21日)詳細
1932年(昭和7)日満議定書」が調印される詳細
1945年(昭和20)文部省が「新日本建設ノ教育方針」を公表する詳細