ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、飛鳥時代の670年(天智天皇9)に、法隆寺が落雷により全焼した日です。
 法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山(元は法相宗)で、正式名称は法隆学問寺と言い、推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つで、南都七大寺の一つでもあります。飛鳥時代に聖徳太子が用明天皇の遺志を継ぎ、薬師三尊像を安置したのに始まり、創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされますが、670年(天智天皇9)に落雷によって全焼し、7世紀後半に再建されました。
 金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、境内の広さは約18万7千㎡です。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群で、そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群などがあり、東院伽藍には、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、夢違観音、玉虫厨子、橘夫人念持仏厨子、百万塔陀羅尼などがあり、全体で38件もの国宝と151件の国の重要文化財が残されてきました。
 残念ながら、金堂の壁画は1949年(昭和24)の火災で損傷したものの、のち復元されています。また、1934年(昭和9)に法隆寺国宝保存事業の開始と共に、次々と根本的修理が行われ、1954年(昭和29)の金堂の修理落成でほぼ終了しました。
 尚、1993年(平成5)には、法起寺と共に、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇法隆寺関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・574年(敏達3年) 聖徳大子が生まれる
・586年(用明元年) 聖徳太子が法隆寺および薬師仏の造立を発願する
・607年(推古15年) 法隆寺が完成し、用明天皇のために金堂薬師如来像を造願する
・622年(推古30年2月22日) 聖徳太子が亡くなり、橘大郎女が聖徳太子のために、天寿国曼荼羅繍帳を作成する
・623年(推古31年) 止利仏師により金堂釈迦三尊像が完成する
・643年(皇極2年11月) 蘇我入鹿が、聖徳太子の皇子山背大兄王らを斑鳩宮に襲い、山背大兄王ら一族25人が自害し、聖徳太子の血族である上宮王家が滅亡する
・670年(天智9年4月30日) 夜半に法隆寺が全焼する
・708年(和銅元年) 詔により法隆寺を再建する
・711年(和銅4年) 五重塔内塑像および中門金剛力士像を造る
・737年(天平9年) 行信が聖徳太子の遺品を集める
・739年(天平11年4月10日) 行信、上宮王院(東院)夢殿を造立する
・767年(神護景雲元年9月5日) 行信発願の大般若経など2,700巻の写経事業が、法資孝仁によって完成する
・859年(貞観元年9月19日) 道詮奏上して夢殿を修理する
・1023年(治安3年10月26日) 藤原道長、法隆寺および上宮王院に参詣する
・1069年(治暦5年2月5日) 仏師僧円快、秦到真、聖徳太子像を造る
・1114年(永久2年) 勝賢、法隆寺一切経写経事業を発願する
・1118年(元永元年) 写経事業が完成する
・1121年(保安2年) 東室を新造、南面を改造して聖霊院とし、院内に聖徳太子および侍者像5体を奉安する
・1126年(大治元年7月19日) 源義、開浦三昧堂を改めて三経院を造立する
・1261年(弘長元年9月4日) 後嵯峨太上天皇、行幸する
・1574年(天正2年正月) 織田信長、法隆寺境内へ陣取などを禁止する掟を作る
・1600年(慶長5年) 豊臣秀頼が、この頃から法隆寺全伽藍の修理を開始する
・1606年(慶長11年) 豊臣秀頼による法隆寺全伽藍を修理が完了する
・1614年(慶長19年10月16日) 徳川家康、大阪冬の陣に赴く途上、法隆寺で太子尊像を拝し、阿弥陀院で一泊する
・1868年(明治元年3月) 「神仏分離令」により、廃仏棄釈運動が起こる
・1878年(明治11年) 300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜される
・1884年(明治17年) フェノロサ、岡倉覚三(天心)らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉される(異説あり)
・1903年(明治36年) 佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興する
・1934年(昭和9年) 「昭和の大修理」が開始される
・1939年(昭和14年) 「若草伽藍」を発掘する
・1944年(昭和19年) 太平洋戦争下の爆撃から守るため、解体していた部材を安堵村(現・安堵町)などに疎開させる
・1947年(昭和22年) 復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見する
・1949年(昭和24年)1月26日 金堂より失火し、壁画を焼損する
・1950年(昭和25年) 法相宗を離脱し、聖徳宗を開く
・1951年(昭和26年)6月9日、法隆寺境内、史跡に指定される。
・1954年(昭和29年) 「昭和の大修理」が金堂の修理落成でほぼ終了する
・1967年(昭和42年)10月20日 法隆寺境内が、歴史的特別保存地区に指定される
・1969年(昭和44年)4月 金堂内陣上部小壁天人壁画再現事業を開始。
・1971年(昭和46年)3月31日 金堂内陣上部小壁再現事業完成。4月2日~4日の3日間、聖徳太子1350年御聖諱法要が厳修される。
・1985年(昭和60年)6月30日 昭和の大修理完成し、法隆寺昭和大修理完成法要が厳修される
・1993年(平成5年)12月9日 「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される
・2013年(平成25年)12月9日 大規模自然災害時には寺を緊急避難場所に開放する協定を斑鳩町と締結し、境内の南大門前広場や聖徳会館を避難場所として提供する
・2015年(平成27年)11月11日 1949年の火災で焼失した金堂壁画について、文化庁などと共同で総合的な科学調査を実施すると発表される
・2023年(令和5年)9月7日 斑鳩町教育委員会が、「舟塚古墳」と呼称していた観光バス駐車場にある円形の植え込みで、奈良大学との共同発掘調査にて石室と副葬品を発見したと報じられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(文治5)源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川の館を襲い、源義経が自害する(新暦6月15日)詳細
1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1886年(明治19)秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す詳細
1926年(大正15)小説家河野多惠子の誕生日詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の投票で、翼賛政治体制協議会推薦者が381議席を占める詳細
1950年(昭和25)「図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、帝国奈良博物館(現在の奈良国立博物館)が開館した日です。
 奈良国立博物館(ならこくりつはくぶつかん)は、奈良県奈良市登大路町にある国立博物館で、主として仏教関係の美術品を収蔵・展示してきました。1889年(明治22)に帝国博物館の一つとして設置が決まり、1892年(明治25)に興福寺の塔頭宝蔵院の跡地で、建設工事が始まり、1894年(明治27)に片山東熊(とうくま)設計の建物(現在のなら仏像館・重文)が完成、翌年)4月29日に、帝国奈良博物館として開館します。
 1900年(明治33)に奈良帝室博物館と改称、1914年(大正3)に正倉院掛が置かれ、太平洋戦争後の1947年(昭和22)には、宮内省より文部省に移管され、国立博物館奈良分館となりました。1950年(昭和25)に文化財保護委員会附属機関となり、1952年(昭和27)に奈良国立博物館として独立し、1968年(昭和33)には、文化庁の附属機関となりました。1972年(昭和47)に陳列館新館(西新館)、1980年(昭和55)に仏教美術資料研究センター、1997年(平成9)には、東新館、地下回廊が竣工するなど施設設備の充実が図られます。
 2001年(平成13)に独立行政法人国立博物館の設置する博物館となり、2002年(平成14)に文化財保存修理所が開所、2007年(平成19)には、独立行政法人国立文化財機構の奈良国立博物館となりました。2010年(平成22)に本館が展示室をリニューアルして新たに「なら仏像館」として再オープンしましたが、仏教美術品を中心に収蔵・展示し、毎年秋には、正倉院展が開催されることで知られています。
 現在の敷地面積78,760㎡、建物延床面積19,133㎡(なら仏像館・青銅器館・西新館・東新館・仏教美術資料研究センター・文化財保存修理所・その他)、展示面積4,079㎡、収蔵庫面積1,806㎡で、国宝13件、重要文化財114件を含む収蔵品の総数は1,911件、これとは別に、国宝52件、重要文化財306件を含む総数1,974件の寄託品を収蔵してきました。

<収蔵する国宝>13件

・絹本著色十一面観音像(井上馨、益田孝旧蔵)
・紙本著色地獄草紙
・紙本著色辟邪絵(へきじゃえ)
・紙本墨画淡彩山水図(水色巒光図-すいしょくらんこうず)伝周文筆
・木造薬師如来坐像 京都・若王子神社旧蔵
・牛皮華鬘(ごひけまん)東寺伝来
・刺繡釈迦如来説法図 京都・勧修寺旧蔵
・蓮唐草蒔絵経箱 福井・神宮寺旧蔵
・金剛般若経開題残巻 弘法大師筆 (三十八行)
・紫紙金字金光明最勝王経 広島・西国寺旧蔵
・日本書紀 巻第十残巻(田中本)
・伝教大師筆尺牘(せきとく)(久隔帖)最澄筆 弘仁四年十一月廿五日
・越中国射水郡鳴戸村墾田図 天平宝字三年十一月十四日

〇奈良国立博物館関係略年表

・1889年(明治22) 帝国奈良博物館として設置が決まる
・1892年(明治25) 興福寺旧境内である現在地で、建設工事が始まる
・1894年(明治27) 片山東熊(とうくま)設計の建物(現在のなら仏像館・重文)が完成する
・1895年(明治28)4月29日 帝国奈良博物館として開館する
・1900年(明治33) 奈良帝室博物館と改称する
・1914年(大正3) 正倉院掛が置かれる
・1947年(昭和22) 宮内省より文部省に移管され、国立博物館奈良分館となる
・1950年(昭和25) 文化財保護委員会附属機関となる
・1952年(昭和27) 奈良国立博物館として独立する
・1968年(昭和33) 文化庁の附属機関となる
・1972年(昭和47) 陳列館新館(西新館)が竣工する
・1980年(昭和55) 仏教美術資料研究センターが設置される
・1995年(平成7) 開館百周年記念式典が挙行される
・1997年(平成9) 東新館、地下回廊が竣工(東新館展示室は同10年より運用)する
・2001年(平成13) 独立行政法人国立博物館の設置する博物館となる
・2002年(平成14) 文化財保存修理所が開所する
・2007年(平成19) 独立行政法人国立文化財機構の奈良国立博物館となる
・2010年(平成22) 本館が展示室をリニューアルして新たに「なら仏像館」として再オープンする

☆博物館とは?

 広辞苑によると、「古今・東西にわたって考古学資料・美術品・歴史的遺物、その他の学術的資料を博く蒐集し、これを組織的に陳列して一般公衆の展覧に供し、学術研究の資とし、社会教育に寄与するための施設。」となっていました。
 また、博物館法では、「博物館は、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し(育成を含む)、展示して教育的配慮のもとに一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせて、これらの資料に関する調査研究をする機関である」とされています。
 日本では、明治時代前期の1872年(明治5)に文部省博物局の管轄で湯島の聖堂に開設されたのが最初とされ、1875年(明治8)になって内務省管轄の博物館が設置されました。この博物館は、帝国博物館、東京帝室博物館などと名称を変え、太平洋戦争後、国立博物館となり、1952年(昭和27)に現在の東京国立博物館になったのです。
 そして、戦後になって博物館の数は急速に増えていきました。日本では現在、博物館の数は増加傾向にあり、文部科学省の調査では、2011年(平成23)10月現在で、5,747館があります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)経済学者・史学者・政治家田口卯吉の誕生日(新暦6月12日)詳細
1886年(明治19)「華族世襲財産法」(明治19年勅令第34号)が公布される詳細
1912年(明治45)北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)でガス爆発事故が起こり、死者269人を出す詳細
1951年(昭和26)沖縄社会大衆党、沖縄人民党を中心に「日本復帰促進期成会」が結成される詳細
1997年(平成9)「化学兵器禁止条約」が発効する詳細
2006年(平成18)生口島北IC~生口島南IC(生口島道路)の開通で西瀬戸自動車道が全通する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、日本と中華民国の間で「日華平和条約」が調印(同年8月5日より発効)され、日中戦争が正式に終了した日です。
 「日華平和条約」(にっかへいわじょうやく)は、太平洋戦争後に締結された、日本と中華民国(台湾政権)との間の講和条約で、正式名称は「日本国と中華民国との間の平和条約」と言いました。1951年(昭和26)9月のサンフランシスコ講和会議には、中国代表は招待されませんでしたが、同年12月の吉田書簡で日本は国民政府(台湾政権)との講和希望を表明し、翌1952年(昭和27)4月28日に台湾のタイペイ (台北) において、条約締結(同年8月5日より発効)に至ったものです。
 日本と中華民国間の戦争状態の終結、台湾・澎湖(ほうこ)諸島などに対する領土権の放棄、日本財産の放棄と台湾の賠償請求権の放棄などを規定していました。国民政府の支配下にある台湾を適用範囲として締結され、かつ将来国民政府の支配下に入る領域をも適用範囲と定めています。
 そのため、日中間の全面的国交回復が阻害される要因となりましたが、1972年(昭和47)日本が中華人民共和国と国交を回復すると共に、この条約も失効し、国民政府もまた対日国交断絶を宣言しました。
 以下に、「日本国と中華民国との平和条約」(昭和27年条約第10号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
 
〇「日本国と中華民国との平和条約」(昭和27年条約第10号)1952年(昭和27)4月28日締結、同年8月5日発効

 日本国及び中華民国は、
 その歴史的及び文化的のきずなと地理的の近さにかんがみ、善隣関係を相互に希望することを考慮し、
 その共通の福祉の増進並びに国際の平和及び安全の維持のための緊密な関係が重要であることを思い、
 両者の間の戦争状態の存在の結果として生じた諸問題の解決の必要を認め、
 平和条約を締結することに決定し、よつて、その全権委員として次のとおり任命した。

 日本国政府    河田 烈
 中華民国大統領  葉 公超

 これらの全権委員は、互にその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。

第一条
 日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。

第二条
 日本国は、千九百五十一年九月八日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第二条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南諸島及び西沙諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される。

第三条
 日本国及びその国民の財産で台湾及び澎湖諸島にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で台湾及び澎湖諸島における中華民国の当局及びそこの住民に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国政府と中華民国政府との間の特別取極の主題とする。国民及び住民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む。

第四条
 千九百四十一年十二月九日前に日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となつたことが承認される。

第五条
 日本国は、サン・フランシスコ条約第十条の規定に基き、千九百一年九月七日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意したことが承認される。

第六条
 (a) 日本国及び中華民国は、相互の関係において、国際連合憲章第二条の原則を指針とするものとする。
 (b) 日本国及び中華民国は、国際連合憲章の原則に従つて協力するものとし、特に、経済の分野における友好的協力によりその共通の福祉を増進するものとする。

第七条
 日本国及び中華民国は、貿易、海運その他の通商の関係を安定した且つ友好的な基礎の上におくために、条約又は協定をできる限りすみやかに締結することに努めるものとする。

第八条
 日本国及び中華民国は、民間航空運送に関する協定をできる限りすみやかに締結することに努めるものとする。

第九条
 日本国及び中華民国は、公海における漁猟の規制又は制限並びに漁業の保存及び発展を規定する協定をできる限りすみやかに締結することに努めるものとする。

第十条
 この条約の適用上、中華民国の国民には、台湾及び澎湖諸島のすべての住民及び以前にそこの住民であつた者並びにそれらの子孫で、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令によつて中国の国籍を有するものを含むものとみなす。また、中華民国の法人には、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令に基いて登録されるすべての法人を含むものとみなす。

第十一条
 この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外、日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は、サン・フランシスコ条約の相当規定に従つて解決するものとする。

第十二条
 この条約の解釈又は適用から生ずる紛争は、交渉又は他の平和的手段によつて解決するものとする。

第十三条
 この条約は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかに台北で交換されなければならない。この条約は、批准書の交換の日に効力を生ずる。

第十四条
 この条約は、日本語、中国語及び英語により作成するものとする。解釈の相違がある場合には、英語の本文による。

 以上の証拠として、それぞれの全権委員は、この条約に署名調印した。

 昭和二十七年四月二十八日(中華民国の四十一年四月二十八日及び千九百五十二年四月二十八日に相当する。)に台北で、本書二通を作成した。

 日本国のために   河田 烈

 中華民国のために  葉 公超

  議定書 (省略)

  「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1177年(安元3)京都で安元の大火(太郎焼亡)が起きる(新暦6月3日)詳細
1876年(明治9)松本市の和洋折衷建築の小学校・旧開智学校(国宝)で上棟式が行われる詳細
1919年(大正8)横浜大正8年「埋地の大火」が起き、3,248戸を焼失する詳細
1948年(昭和23)夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される詳細
1949年(昭和24)内閣から「当用漢字字体表」が告示され、「当用漢字表」の字体を規定、略字が大幅に採用される詳細
1952年(昭和27)日米安全保障条約」(旧)が発効する詳細
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 今日は、平成時代の1991年(平成3)に、国際生命尊重会議で、「胎児の人権宣言」が採択された日で、「世界生命の日」とされています。
 「胎児の人権宣言」(たいじのじんけんせんげん)は、国際生命尊重連盟(国連承認NGO)の第2回国際生命尊重会議(東京大会)で採択された胎児の人権についての宣言でした。この会議は、1991年(平成3)4月25~27日に、東京にある上智大学で開催され、国際生命尊重連盟の会長であるドクター・ジョン・ウィルキーら31ヶ国のプロライフの代表が50人以上集います。
 南山大学教授の法学者阿南成一、武蔵工業大学教授多井一雄、東京基督教大学教授稲垣久和らが講演し、「菊田医師赤ちゃんあっせん事件」の菊田昇の発案による、この宣言が最終日に採択されました。「人間は受精の瞬間から生来の尊重と固有の価値を有する」というもので、世界で初めて胎児にも人権があることが宣言されます。そして会議では、この日を「世界生命の日」として制定しました。
 この宣言は、最後の人権宣言と言われていますが、国際連合や各国で世界的にこれが認められるよう求めているものの、2010年時点では批准はされていません。
 以下に、「胎児の人権宣言」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「胎児の人権宣言」 1991年(平成3)4月27日採択

前文 人間はひとりびとりが、受精の瞬間から自然死にいたるまで、生来の尊厳と固有の価値を有するので、今日我々は公けに以下の六ケ条の宣言に同意する。

第一条 我々は、胎児ひとりびとりが、受精以後の発育のすべての段階において、人間であるという科学的事実を確認する。

第二条 我々は、本宣言に定められている権利を、人権、胎児齢、性別、国籍、宗教、社会一経済的出自(生まれ)、障害の有無、その他のいかなる理由によっても差別することなく、尊重する。

第三条 我々は、胎児が、1948年の国連の人権宣言に述べられている胎児以外のすべての人間の基本的権利と同様の権利を有することを確認する。我々は、この権利が立法によって認められることを要求する。

第四条 我々は、胎児ひとりびとりが良好な体内環境で発育する権利を有することを認める。この環境には出産までの母親の適切な保護と両親への支援を求める権利が含まれなければならない。

第五条 胎児が、受精の時から、科学的、医学的、または医学外的実験や利用に供されない権利を有することを確認する。ただし、この実験や利用が胎児に直接役立つ場合を除く。
 
第六条 我々は、胎児の発育とそれに関する諸問題についての科学的事実の教育の推進に努める。また我々は、女性が子供を産み育てるのを難しくしている社会的、経済的ならびに法律的諸条件の改善に努める。

結び  以上にかんがみ、我々はすべての国際団体、政府、組織、ならびにすべての善意の人々が、ここに含まれる各箇条を公認し、実行するように強く奨める。

             1991年4月27日東京

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)日本8番目の洋式灯台である江埼灯台が初点灯する(新暦6月14日)詳細
1874年(明治7)浜松明治7年大火「小野組火事」が起き、死者3名、焼失家数1,335軒を出す詳細
1897年(明治30)帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館を帝国図書館とする詳細
1907年(明治40)国際的に活躍した版画家斎藤清の誕生日詳細
1948年(昭和23)衆議院不当財産取引委員会で昭和電工への復金融資をめぐる贈収賄(昭和電工事件)が問題化する詳細
2013年(平成25)推理作家・評論家佐野洋の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、高等小学校・中学校に通学しない12~19歳の男子に、青年学校への通学が義務化された日です。
 青年学校(せいねんがっこう)は、1935年(昭和10)4月1日公布・施行された「青年学校令」によって、実業補習学校と青年訓練所とが合併して発足した勤労青年教育機関でした。全国市町村に設置され、定時制で、普通科2年、本科5年(女子3年)の他、研究科、専修科からなり、一般教育、職業教育・訓練を内容とします。
 1939年(昭和14)4月26日の「昭和14年勅令第254号」により、本令は全部改正され、国防力充実と産業発展の必要上の名目で、高等小学校・中学校に通学しない12~19歳の男子に、青年学校への通学が義務化され、軍事教育が中心となりました。それまで勤労青年教育の中心であった農業青年だけでなく、都市勤労青年にも教育の機会が与えられることになり、工場や事業場に私立の青年学校が設けられます。
 太平洋戦争後の1947年(昭和22)に公布された「学校教育法」により、新制中学校、新制高等学校が発足するのに伴い、廃止されました。
 以下に、「青年学校令」(昭和10年勅令第41号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「青年学校令」(昭和10年勅令第41号)1935年(昭和10)4月1日公布・施行

第一条 青年学校ハ男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涵養スルト共ニ職業及実際生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ目的トス

第二条 北海道府県、市町村、市町村学校組合、町村組合及町村制ヲ施行セザル地域ニ於ケル町村又ハ町村学校組合ニ準ズベキ公共団体ハ青年学校ヲ設置スルコトヲ得
2 市町村、市町村学校組合及町村学校組合ハ前項ノ規定ニ依リ青年学校ヲ設置スル場合ニ於テ費用ノ負担ノ為学区ヲ設クルコトヲ得

第三条 商工会議所、農会其ノ他之ニ準ズベキ公共団体ハ青年学校ヲ設置スルコトヲ得
2 前項ノ規定ニ依リ設置シタル青年学校ハ私立トス

第四条 私人ハ青年学校ヲ設置スルコトヲ得

第五条 青年学校ノ設置廃止ハ道府県立ノ学校ニ在リテハ文部大臣、其ノ他ノ学校ニ在リテハ地方長官ノ認可ヲ受クベシ
2 青年学校ノ設置廃止ニ関スル規則ハ文部大臣之ヲ定ム

第六条 青年学校ニ普通科及本科ヲ置ク但シ土地ノ情況ニ依リ普通科又ハ本科ノミヲ置クコトヲ得
2 青年学校ニハ研究科ヲ置クコトヲ得

第七条 普通科ノ教授及訓練期間ハ二年トス
2 本科ノ教授及訓練期間ハ男子ニ在リテハ五年、女子ニ在リテハ三年トス但シ土地ノ情況ニ依リ男子ニ在リテハ四年、女子ニ在リテハ二年ト為スコトヲ得
3 研究科ノ教授及訓練期間ハ一年以上トス

第八条 普通科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ尋常小学校卒業者又ハ之ニ相当スル素養アル者トス
2 本科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ普通科修了者、高等小学校卒業音又ハ之ニ相当スル素養アル者トス
3 研究科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ本科卒業者又ハ之ニ相当スル素養アル者トス

第九条 普通科ノ教授及訓練科目ハ男子ニ在リテハ修身及公民科、普通学科、職業科並ニ体操科トシ女子ニ在リテハ修身及公民科、普通学科、職業科、家事及裁縫科並ニ体操科トス
2 本科ノ教授及訓練科目ハ男子ニ在リテハ修身及公民科、普通学科、職業科並ニ教練科トシ女子ニ在リテハ修身及公民科、普通学科、職業科、家事及裁縫科並ニ体操科トス
3 研究科ノ教授及訓練科目ハ本科ノ教授及訓練科目ニ就キ適宜之ヲ定ムベシ但シ修身及公民科ハ之ニ缺クコトヲ得ズ
4 教授及訓練科目ノ程度ハ文部大臣之ヲ定ム

第十条 青年学校ニハ特別ノ事項ヲ修得セシムル為専修科ヲ置クコトヲ得
2 専修科ニ関スル規則ハ文部大臣之ヲ定ム

第十一条 青年学校ニハ相当員数ノ専任教員ヲ置クベシ

第十二条 青年学校ノ教育ノ資格ニ関スル規則ハ文部大臣之ヲ定ム

第十三条 青年学校ノ設備ニ関スル規則ハ文部大臣之ヲ定ム

第十四条 青年学校ニ於テハ授業料ヲ徴収スルコトヲ得ズ但シ道府県立ノ学校ニ在リテ文部大臣、其ノ他ノ学校ニ在リテ地方長官ノ認可ヲ受ケタル場合ハ此ノ限ニ在ラズ

第十五条 本令ニ依ラザル学校ハ青年学校ト称スルコトヲ得ズ

  附 則

1 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
2 青年学校ノ本科ノ教授及訓練期間ハ土地ノ情況ニ依リ道府県立ノ学校ニ在リテハ文部大臣、其ノ地ノ学校ニ在リテハ地方長官ノ認可ヲ受ケ当分ノ内之ヲ男子ニ在リテハ二年又ハ三年ト為スコトヲ得
3 青年学校ノ専任教員ハ道府県立ノ学校ニ在リテハ文部大臣、其ノ他ノ学校ニ在リテハ地方長官ノ認可ヲ受ケ当分ノ内之ヲ置カザルコトヲ得
4 本令施行ノ際現ニ存スル公立ノ実業補習学校及青年訓練所ハ之ヲ本令ニ依リ設置シタル青年学校ト看倣ス
5 前項ノ青年学校ニシテ本令ニ依リ難キモノハ本令施行後六月ヲ限リ仍従前ノ実業補習学校及青年訓練所ノ例ニ依リ教育ヲ為スコトヲ得

  「官報」より

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