ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、「鹿鳴館」が開館した日です。
 「鹿鳴館」は、東京府麹町区内幸町(現在の東京都千代田区内幸町)にあった西洋館で、官設の社交場でした。
 外務卿になった井上馨の提唱で、お雇い外国人のイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計、1881年(明治14)に旧薩摩藩上屋敷跡で着工され、1883年(明治16)7月に落成、同年11月28日に盛大な開館式(1,200名招待)が行われました。
 ネオ・バロック様式を基調とした煉瓦造り二階建ての本館(1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室)と付属施設とからなり、総建坪1,450平方m、総工費は18万円かかっています。
 条約改正の実現には内外人の交誼友好が必要であると考えられ、外務官を招いて舞踏会や園遊会などがしばしば開かれ、欧化主義の象徴とされた建物で、鹿鳴館時代とも呼ばれました。
 その後、1890年(明治23)に華族会館に貸与、1894年(明治27)に払い下げられ、1898年(明治31)には名称も華族会館と変わります。さらに、1933年(昭和8)以降、日本徴兵保険会社、内国貯金銀行などが使用し、1941年(昭和16)に取り壊されました。
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 今日は、明治時代前期の1886年(明治19)に、洋画家藤田嗣治(ふじたつぐはる)の生まれた日です。
 藤田嗣治は、1886年(明治19)11月27日に、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)の陸軍軍医藤田嗣章の次男として生まれました。1905年(明治38)に、高等師範附属中学校(現在の筑波大附属中学・高校)を卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学します。
 1910年(明治43)に卒業後は、和田英作の壁画制作の助手をつとめながら、文展にも出品したものの、3年連続で落選しました。
 1913年(大正2)にフランスへ渡り、モンパルナスにアトリエを構え、乳白色の地に細く鋭い線をもって描く独自の画風で注目を集めるようになります。エコール・ド・パリの一員として認められ、1917年(大正6)には個展を開催、1919年(大正8)にサロン・ドートンヌに出品した6点全部が入選し同会会員に推され、2年後には審査員にもなりました。
 一方国内では、1922年以降帝展に出品し、1924年(大正13)に帝展審査員となり、1933年(昭和8)には一時帰国し、翌年二科会員となるものの再び渡仏します。
 1940年(昭和15)に第二次世界大戦のため帰国し、翌年には帝国芸術院会員になり、戦争記録画「シンガポール最後の日」で朝日文化賞を受賞しました。
 戦後の1949年(昭和24)には日本画壇と決別して渡仏し、1955年(昭和30)にフランス国籍を取得します。翌々年にはレジオン・ドヌール勲章を受け、1959年(昭和34)には、ベルギー国立アカデミー会員となり、カトリックの洗礼も受けてレオナール・フジタ(Léonard Foujita)となりました。
 しかし、1968年(昭和43)1月29日に、チューリヒにおいて、81歳で亡くなりました。
 主要作品は、「自画像」(1910年・東京芸術大学)、「パリ風景」 (1917年・東京国立近代美術館) 、「五人の裸婦」 (1923年・東京国立近代美術館) 、「舞踏会の前」 (1925年・大原美術館)、「ドルドーニュの家」 (1940年・ブリヂストン美術館)、「猫」(1940年・東京国立近代美術館)、「私の夢」 (1947年・新潟県立万代島美術館) 等があります。
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 今日は、昭和時代中期の1957年(昭和32)、東京都の奥多摩に小河内ダムが完成した日です。
 小河内ダムは、東京都西多摩郡奥多摩町の多摩川上流にある、多目的(上水道、洪水調節、発電、灌漑)の重力式コンクリートダムです。
 大正時代の1926年(大正15)に、ダム建設候補地として調査が開始され、1932年(昭和7)に認可申請されました。1936年(昭和11)に事業認可され、1938年(昭和13)に着工、太平洋戦争による中断をはさみ、19年の歳月をかけて、1957年(昭和32)11月26日に完成しました。
 高さ149m、基底幅131m、堤頂長 353m、頂標高は約530m、有効貯水量約1億9千万m3あり、下流4ヵ所に7万kWの発電所があります。
 この建設には、約200億円の経費がかかり、工事中に87名が犠牲となり、総数945世帯が移転を余儀なくされました。水没した旧小河内村は、石川達三の1937年(昭和12)発表の小説『日蔭の村』のモデルとなりました。
 このダムによってできた奥多摩湖の湖畔には、1万本の桜が植えられて桜の名所となり、ニジマス、ヤマメ、ハヤ釣りでも知られ、四季折々に楽しめる観光地となっています。尚、ダムサイトには「奥多摩 水と緑のふれあい館」という資料館も出来ました。
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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、小説家・劇作家三島由紀夫の亡くなった日で、憂国忌とも呼ばれています。
 三島由紀夫は、大正時代の1925年(大正14)1月14日に、東京市四谷区(現在の東京都新宿区)で、父平岡梓(あずさ)と母倭文重(しずえ)の長男としてに生まれましたが、本名は平岡公威といいました。1931年(昭和6)に学習院初等科に入り、高等科まで学習院で学び、この中で文学活動を始めます。
 1944年(昭和19)に東京帝国大学法学部に入学し、処女短編集『花ざかりの森』を刊行し、太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に川端康成の推薦で、短編『煙草』を発表しました。
 1947年(昭和22)卒業後は、大蔵省に勤めたものの、9ヶ月で退職して本格的な作家生活を開始します。そして、1949年(昭和24)に長編小説『仮面の告白』を刊行し、作家としての地位を確立しました。
 続いて、小説では、『愛の渇き』、『青の時代』(1950年)、『潮騒』(1954年)、『金閣寺』(1956年)、『鏡子の家』(1959年)など、戯曲では、『近代能楽集』(1956年)、『鹿鳴館』(1957年)などの代表作を発表し、戦後の日本文学界を代表する作家の一人となります。
 その後は、自衛隊に体験入隊し、「楯(たて)の会」を結成するなどナショナリズムに傾斜し、長編小説『豊饒の海』を書き続けましたが、1970年(昭和45)11月25日に、45歳で自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んで割腹自殺しました。

〇三島由紀夫の代表的な作品

<小説>
・『仮面の告白』(1949年)
・『愛の渇き』(1950年)
・『青の時代』(1950年)
・『禁色』 (1951~1953年)
・『潮騒』(1954年)
・『金閣寺』(1956年)
・『鏡子の家』(1959年)
・『宴のあと』(1960年)
・『憂国』(1961年)
・『絹と明察』(1964年)
・『英霊の声』 (1966年)
・『太陽と鉄』 (1965~1968年)
・『豊饒の海』(1965~1970年)

<戯曲>
・『近代能楽集』(1956年)
・『鹿鳴館』(1957年)
・『サド侯爵夫人』(1965年)
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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、平塚らいてうにより新婦人協会の設立が発表された日です。
 これは、日本で最初に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体です。1919年(大正8)11月24日に平塚らいてうが呼びかけ、市川房枝、奥むめお、坂本真琴、山田わからが応じて、活動を始めました。1920年(大正9)3月28日に、70名(内男子約20名)が集まって発会式を行い、宣言、綱領、規約を発表し、その後、名古屋、大阪、神戸、福山、三原、広島に支部が出来、会員は400名を数えるようになります。
 男女同権、母性保護、女性の権利向上等を掲げ、最初の運動として、女子の政治的活動を封じている「治安警察法」5条の改正と花柳病にかかった男子の結婚制限問題に取り組みました。
 また、機関紙『女性同盟』の発刊や講演会等によって、女性の政治的・経済的・社会的地位の向上に努めます。
 その結果、1922年(大正11)の第45帝国議会で「治安警察法」5条の一部改正を成立させ、女子も政談演説会を聴く自由とその発起人になる権利を獲得しました。
 しかし、同年12月8日に内部対立のため解散するに至ります。約3年間の活動だったものの、日本の婦人参政権運動史上に大きな役割を果たしました。

〇新婦人協会創立当初の役員
<理事>
 平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
<評議員>
 坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都

〇新婦人協会の宣言
 婦人も亦婦人全体のために、その正しき義務と権利の遂行のために団結すべき時が来ました。今こそ婦人は婦人自身の教養、その自我の充実を期するのみならず、相互の堅き団結の力によって、その社会的地位の向上改善を計り、婦人としての、母としての権利の獲得のため、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります。
 若しこの時に於いて、婦人が立たなければ、到来の社会もまた婦人を除外した男子中心のものとなるに相違ありません。そしてそこに世界、人類の禍の大半が置かれるのだと思います。
 私共は日本婦人がいつまで無知無能であるとは信じません。否、既に我が婦人界は今日見るべき学識あり、能力ある幾人かの新婦人を有ってゐます。しかも私共は是等の現われたる婦人以外に、なお多くの更に識見高き、思慮あり、実力ある隠れたる婦人のあることを疑ひません。
 しかるに是等の婦人の力が一つとして社会的に若しくは社会的勢力となって活動して来ないのは何故でありませう。まったく婦人相互の間に何の連絡も無く、各自孤立の状態にあって、少しもその力を婦人共同の目的のために一つにしやうというやうな努力もなく、又そのための機関もないからではないでせうか。私共はさう信ずるものであります。
 是私共が微力を顧みず、同志を糾合し、つとに婦人の団体的活動の一機関として「新婦人協会」を組織し、婦人相互の団結をはかり、堅忍自給の精神をもって、婦人擁護のため、その進歩向上のため、あるいは利益の増進、権利の獲得のため努力し、その目的を達っせんことを期する所以であります。

〇新婦人協会の綱領
一、婦人の能力を自由に発達せしめるため男女の機会均等を主張すること。
一、男女の価値同等観の上に立ちてその差別を認め協力を主張すること。
一、家庭の社会的意義を闡明(せんめい)にすること。
一、婦人、母、子供の権利を雍護し、彼等の利益の増進を計ると共に之に反する一切を排除すること。

〇新婦人協会の規約(事業内容)
一、女子高等教育、小学大学の男女共学、婦人参政権、婦人に不利なる諸法制の改廃、母性保護等の要求をなすために実際運動を開始すること。
一、各地の有力なる婦人団体と連絡を計り、婦人共同の利益に対する日本婦人総同盟を組織すること。
一、婦人に関する諸種の特種問題の研究調査会を設くる事。
一、婦人問題、労働問題、生活問題及其他諸種の社会問題に関する講演会を各地にて開くこと。
一、機関雑誌「女性同盟」の発刊。
一、婦人労働者の教化機関として学校を設置し、婦人労働新聞を発刊し、健全にして実力ある婦人労働組合を組織する基礎を造る事。
一、婦人身上相談、職業紹介、結婚媒介。
一、女子大学講座の開設。
一、事務所、公会所、教室、婦人共同寄宿所、婦人簡易食堂、娯楽所、運動場、図書館等を含む婦人会館の建設。

                 児玉勝子著『婦人参政権運動小史』より
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