ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に、詩人蒲原有明の誕生日です。
 蒲原有明(かんばら ありあけ)は、東京市麹町区隼町で、佐賀藩士だった父・蒲原忠蔵、母・石川ツネの子として生まれましたが、本名は隼雄(はやお)と言いました。1881年(明治14)、8歳の時に生母ツネは、父に離婚され、その後は継母に育てられます。
 1892年(明治25)に東京府立尋常中学校(現在の日比谷高校)を卒業し、翌年に神田の国民英学会に入り、英語・英文学を学び、詩に親しむようになりました。1894年(明治27)に「落穂双紙」を創刊し、詩作を発表、翌年に紀行文『松浦あがた』を発表、1898年(明治31)には、「読売新聞」の懸賞小説(尾崎紅葉選)に『大慈悲』が一等当選します。
 詩作に専念するようになり、1902年(明治35)に第1詩集『草わかば』、1903年(明治36)に第2詩集『独絃哀歌』を刊行し、新しい詩人として注目されました。続いて、1905年(明治38)に第3詩集『春鳥集』、1908年(明治41)に第4詩集『有明集』を刊行し、象徴詩人として薄田泣菫と併称されるようになります。
 自然主義の流れに向か合う中で、文壇から激しく批判されて孤立、ノイローゼに陥って、大正以後は文壇を離れました。1919年(大正8)に鎌倉に移住したものの、1923年(大正12)の関東大震災で家屋が損傷し、静岡へ移転を余儀なくされます。
 1938年(昭和13)に随筆集『飛雲抄』を刊行したりしましたが、1945年(昭和20)の敗戦後に鎌倉へ戻りました。1946年(昭和21)に随筆集『野ざらしの夢』、翌年に自伝小説『夢は呼び交す-黙子覚書』を刊行しています。
 1948年(昭和23)には、日本芸術院会員に選ばれたものの、病を得て、1952年(昭和27)2月3日に急性肺炎のため鎌倉の自宅において、77歳で亡くなりました。

〇蒲原有明の主要な著作

・紀行文『松浦あがた』(1895年)
・小説『大慈悲』(1997年)「読売新聞」の懸賞1等当選
・第1詩集『草わかば』新声社刊(1902年)
・第2詩集『独絃哀歌』白鳩社刊(1903年)
・第3詩集『春鳥集』本郷書院刊(1905年)
・第4詩集『有明集』易風社刊(1908年)
・『有明詩集』アルス刊(1922年)
・『有明詩抄』岩波文庫刊(1928年)
・随筆集『飛雲抄』書物展望社刊(1938年)
・随筆集『野ざらしの夢』生活社刊(1946年)
・自伝小説『夢は呼び交す-黙子覚書』東京出版刊(1947年)

☆蒲原有明関係略年表

・1875年(明治8)3月15日 東京市麹町区隼町で、佐賀藩士だった父・蒲原忠蔵、母・石川ツネの子として生まれる
・1881年(明治14) 8歳の時に生母ツネは、父に離婚される
・1892年(明治25) 東京府立尋常中学校(現在の日比谷高校)を卒業する
・1893年(明治26) 神田の国民英学会に入り、英語・英文学を学ぶ
・1894年(明治27) 「落穂双紙」を創刊し、詩作を発表する
・1895年(明治28) 紀行文『松浦あがた』を発表する
・1898年(明治31) 「読売新聞」の懸賞小説(尾崎紅葉選)に『大慈悲』が一等当選する
・1890年(明治33) 「新声」詩壇の撰者となる
・1902年(明治35) 第1詩集『草わかば』(新声社)を刊行する
・1903年(明治36) 第2詩集『独絃哀歌』(白鳩社)を刊行する
・1905年(明治38) 第3詩集『春鳥集』(本郷書院)を刊行する
・1906年(明治39) 西山キミと結婚する 
・1908年(明治41) 第4詩集『有明集』(易風社)を刊行する
・1919年(大正8) 鎌倉に移住する
・1922年(大正11) 『有明詩集』(アルス)を刊行する
・1923年(大正12) 関東大震災で家屋が損傷し、静岡へ移転する
・1938年(昭和13) 随筆集『飛雲抄』(書物展望社)を刊行する
・1945年(昭和20) 敗戦後に鎌倉へ戻る
・1946年(昭和21) 随筆集『野ざらしの夢』(生活社)を刊行する
・1947年(昭和22) 自伝小説『夢は呼び交す-黙子覚書』(東京出版)を刊行する
・1948年(昭和23) 日本芸術院会員に選ばれる
・1952年(昭和27)2月3日 急性肺炎のため鎌倉の自宅において、77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)明治政府が、民政方針を示す「五榜の掲示」の高札を設置する(新暦4月7日)詳細
1890年(明治23)琵琶湖疎水の第一期工事が完成し、全線通水が完了する詳細


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 今日は、江戸時代後期の1789年(寛政元)に、哲学者・経済学者・思想家三浦梅園が亡くなった日ですが、新暦では4月9日となります。
 三浦梅園(みうら ばいえん)は、1723年(享保8年8月2日)に、豊後国国東郡富永村(現在の国東市)の庄屋・医者だった父・義一と母・ふさの次男として生まれましたが、本名は晋(すすむ)と言いました。若い頃に杵築藩の儒者綾部絅斎や中津藩の儒者藤田敬所に学びます。
 20歳頃までに天文学、和算を学び、家業を継ぎながら、梅園塾での門人の教育にも当たりました。その中で、長崎・大宰府・熊本に遊学や伊勢参宮をしたり、1752年(宝暦2年)の30歳の時、天球儀を作成するなど、自然の思索に没頭します。
 1763年(宝暦13)、41歳の時に経世論『敢語』一巻が成り、翌年に医学書『身生餘譚』、1773年(安永2)に経済論『価原』、1775年(安永4)に哲学書『玄語』8巻を完成させるなど、多分野の学問を探求しました。1786年(天明6)、64歳の時に杵築藩主に治世意見書『丙午封事』を奉り、詩の研究書『詩轍』も著しています。
 独自の認識論と存在論によって宇宙・自然・人間を説明する条理の学を唱え、1789年(寛政元)には倫理書『贅語』を完成させましたが、同年3月14日に郷里において、数え年67歳で亡くなりました。尚、後世には帆足万里、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人に数えられるようになります。

〇三浦梅園の主要な著作

・経世論『敢語(かんご)』(1763年)
・医学書『身生餘譚』(1764年)
・経済論『価原(かげん)』(1773年)
・哲学書『玄語』全8巻(1775年)
・医学書『造物餘譚』(1781年)
・治世意見書『丙午封事』(1786年)
・詩の研究書『詩轍(してつ)』(1786年)
・倫理書『贅語』全14巻(1789年)
・『帰山録』(1778年)
・『玄語手引艸(てびきぐさ)』
・読書日記『浦子手記』

☆三浦梅園関係略年表(日付は旧暦です)

・1723年(享保8年8月2日) 豊後国国東郡富永村(現在の国東市)の庄屋・医者だった父・義一と母・ふさの次男として生まれる
・1734年(享保19年) 12歳の頃、隣村の西伯寺に山越えをして通い、その寺にある字で難字について調べる
・1736年(元文元年) 14歳の時、『和漢朗詠集』を写す  
・1737年(元文2年) 15歳の時、はじめて詩に志す  
・1739年(元文4年) 17歳の時、中津の藤田敬所に学び、滞在1ヵ月にて帰る
・1743年(寛保3年) 21歳の時、春再び藤田敬所の門に遊ぶ
・1745年(延享2年)秋、23歳の時、長崎・大宰府・熊本に遊ぶ
・1750年(寛延3年2月11日~3月23日) 28歳の時、伊勢参宮旅行をする 
・1752年(宝暦2年) 30歳の時、天球儀を作成する
・1760年(宝暦10年1月) 38歳の時、父・義一が75歳で亡くなる
・1763年(宝暦13年) 41歳の時、経世論『敢語』一巻が成る
・1764年(明和元年) 42歳の時、長男黄鶴(修齢)が誕生する
・1764年(明和元年) 医学書『身生餘譚』一巻が成る 
・1764年(明和元年) 英彦山に上り大宰府に泰賀上人を訪ねる
・1773年(安永2年) 51歳の時、経済論『価原』が成る
・1775年(安永4年) 53歳の時、哲学書『玄語』8巻が完成する
・1781年(天明元年2月21日~3月15日) 59歳の時、小倉・中津を旅行する
・1781年(天明元年) 医学書『造物餘譚』が成る
・1786年(天明6年) 64歳の時、杵築藩主に治世意見書『丙午封事』を奉る
・1786年(天明6年) 詩の研究書『詩轍』が成る
・1789年(寛政元年) 67歳の時、倫理書『贅語』が完成する
・1789年(寛政元年3月14日) 豊後国国東郡富永村で、数え年67歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細


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 今日は、鎌倉時代初期の1192年(建久3)に、第77代の天皇とされる後白河天皇の亡くなった日ですが、新暦では4月26日となります。
 後白河天皇(ごしらかわてんのう)平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。
 1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。
 1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後六条、高倉、安徳、後鳥羽と4朝30余年にわたる)を始めました。1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。
 その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。
 また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇後白河天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1127年(大治2年9月11日) 京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれる
・1127年(大治2年11月14日) 親王宣下を受けて「雅仁」と命名される
・1129年(大治4年) 曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始される
・1139年(保延5年12月27日) 12歳で元服して二品に叙せられる
・1141年(永治元年12月7日) 崇徳天皇に譲位により、得子所生の体仁親王が即位(近衛天皇)する
・1143年(康治2年) 最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する
・1155年(久寿2年7月24日) 近衛天皇が崩御すると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となる
・1155年(久寿2年10月) 藤原公能の娘である藤原忻子が入内する
・1156年(保元元年) 鳥羽法皇が亡くなると保元の乱が発生する
・1158年(保元3年) 守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1159年(平治元年) 平治の乱が起きて信西を失い、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められる
・1160年(永暦元年10月) 焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる
・1161年(永暦2年4月13日) 完成した御所に移り住む
・1161年(永暦2年9月3日) 滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産する
・1161年(永暦2年9月15日) 憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが二条帝により解官される
・1161年(永暦2年12月17日) 藤原育子が入内する
・1162年(応保2年2月19日) 育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となる
・1162年(応保2年3月) 配流されていた大炊御門経宗が帰京を許される
・1162年(応保2年6月23日) 実長の密告により二条天皇呪詛の容疑で源資賢・平時忠が流罪となる
・1164年(長寛2年12月17日) 多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する
・1165年(永万元年6月25日) 子の二条天皇は病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位する
・1165年(永万元年7月28日) 子の二条天皇が亡くなる
・1165年(永万元年12月25日) 後白河院は憲仁に親王宣下を行い、平清盛を親王勅別当とする
・1166年(永万2年7月26日) 基実が急死すると、嫡子の近衛基通が幼少のため、松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられる
・1166年(永万2年10月10日) 平清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する
・1167年(仁安2年1月19日) 御所の拡張で法住寺南殿が新しく建て替えられる
・1167年(仁安2年5月10日) 平清盛の長男・平重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す
・1168年(仁安3年2月) 平清盛が病に倒れる
・1168年(仁安3年2月19日) 六条天皇が譲位し、憲仁親王(高倉天皇)が即位する
・1169年(仁安4年1月) 12度目の熊野詣に向かう
・1169年(嘉応元年) 出家して法皇となる
・1169年(嘉応元年12月23日) 延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)
・1170年(嘉応2年4月19日) 東大寺で受戒するために奈良に御幸する
・1170年(嘉応2年9月20日) 福原に御幸して宋人と会う
・1170年(嘉応2年10月21日) 参内途中の摂政・松殿基房の車を平重盛配下の武士が襲撃する事件(殿下乗合事件)が起こる
・1170年(嘉応2年12月9日) 藤原基房が太政大臣となる
・1171年(嘉応3年1月3日) 摂政・大臣・公卿・平氏一門が臨席する中、高倉天皇元服の儀式が執り行われる
・1171年(嘉応3年12月14日) 平徳子が後白河院の猶子として高倉天皇に入内する
・1172年(承安2年9月) 宋から後白河院と清盛に供物が届けられる
・1173年(承安3年3月3日) 左大臣・大炊御門経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになる
・1173年(承安3年6月25日) 興福寺が多武峯を襲撃して、藤原鎌足の御影堂までも焼き払う
・1173年(承安3年11月3日) 興福寺は強訴と延暦寺攻撃の方針を固めて宇治に向かい、天台座主の配流・覚興の召還・七大寺の所領奪取を図る延暦寺僧の禁獄を要求する
・1176年(安元2年) 建春門院が亡くなると、近臣と平氏の争いが激化する
・1177年(治承元年) 院近臣による平氏打倒の謀議が発覚、近臣数名が平氏によって処罰される(鹿ヶ谷事件)
・1179年(治承3年11月) 平清盛によって鳥羽殿に幽閉される
・1180年(治承4年4月9日) 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・1180年(治承4年4月22日) 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・1180年(治承4年5月26日) 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・1180年(治承4年6月22日) 平氏が福原遷都を強行する
・1180年(治承4年8月17日) 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・1180年(治承4年9月7日) 源(木曽)義仲が挙兵する
・1180年(治承4年10月20日) 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・1180年(治承4年11月17日) 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・1180年(治承4年12月28日) 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く
・1181年(養和元年閏2月4日) 平清盛が病没する
・1183年(寿永2年5月11日) 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・1183年(寿永2年7月28日) 源(木曽)義仲が、京都に入る
・1183年(寿永2年10月14日) 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
・1184年(寿永3年1月20日) 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・1184年(寿永3年1月26日) 平宗盛追討の宣旨を出す
・1184年(寿永3年2月7日) 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・1185年(元暦2年2月19日) 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・1185年(元暦2年3月24日) 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・1185年(元暦2年7月9日) 京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊する(文治地震)
・1185年(文治元年8月28日) 八条院や公卿・殿上人を引き連れて東大寺に御幸し、大仏の開眼供養をする
・1185年(文治元年11月28日) 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)
・1187年(文治3年2月) 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・1189年(文治5年閏4月30日) 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・1189年(文治5年9月18日) 源頼朝が、奥州を平定する
・1190年(建久元年11月9日) 源頼朝と院御所・六条殿で初めての対面を果たす
・1191年(建久2年3月22日) 17ヶ条の新制を発布する
・1192年(建久3年2月18日) 後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸する
・1192年(建久3年3月13日) 京都において、数え年66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)江戸開城を巡って、西郷隆盛と勝海舟が江戸で会談を始める(新暦4月5日)詳細
1988年(昭和63)青函トンネルが開通する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1633年(寛永10)に、第110代の天皇とされる後光明天皇が生まれた日ですが、新暦では4月20日となります。
 後光明天皇(ごこうみょうてんのう)は、京都において、後水尾天皇の第4皇子(母は藤原光子)として生まれましたが、名は紹仁(つぐひと)と言いました。幼少から聡明で、1642年(寛永19)に儲君となって親王宣下され、翌年には、11歳で元服します。
 1643年(寛永20)に明正天皇の譲位を受けて践祚し、第110代とされる天皇として即位したものの、父の後水尾上皇が引き続き院政をおこないました。その中で、朝儀再興に心を配り、1646年(正保3)に神宮例幣の儀を再興し、釈奠や大学寮の復興、服制の改革をも意図していたとされます。
 和学よりも儒学や詩文を好み、朝山意林庵などの民間の朱子学者を招いて聴講したり、藤原惺窩を追慕し文集に序文を与えたりしました。また、漢詩集『鳳啼集(ほうていしゅう)』を作り、詩92首、歌5首が収められています。
 20歳になると、自ら政務を取るようになりましたが、1654年(承応3年9月20日)に京都において、疱瘡にかかり数え年22歳の若さで亡くなりました。尚、陵所は京都泉涌寺内の月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされています。

〇後光明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1633年(寛永10年3月12日) 京都において、後水尾天皇の第4皇子(母は藤原光子)として生まれる
・1642年(寛永19年9月2日) 儲君となる 
・1642年(寛永19年12月15日) 親王宣下される
・1643年(寛永20年9月27日) 11歳で元服する
・1643年(寛永20年10月3日) 明正天皇の譲位を受けて践祚する
・1643年(寛永20年10月21日) 即位礼が挙行される
・1646年(正保3年) 神宮例幣の儀を再興する
・1650年(慶安3年10月11日) 第1皇女として孝子内親王が生まれる
・1651年(慶安4年9月) 儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与える
・1654年(承応3年9月20日) 京都において、疱瘡にかかり数え年22歳の若さで亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1705年(宝永2)思想家・儒学者・古義学派の創始者伊藤仁斎の命日(新暦4月5日)詳細
2011年(平成23)九州新幹線の新八代~博多が延伸開業し、鹿児島ルートの全線開通となる詳細
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 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、天目山の戦いに敗れた武田勝頼が妻子と共に自害し、武田氏が滅亡した日ですが、新暦では4月3日となります。
 武田勝頼(たけだ かつより)は、1546年(天文15)に戦国大名の武田信玄の四男(母は側室の諏訪御料人)として生まれましたが、幼名は四郎と言いました。1562年(永禄5)に母の生家である諏訪家の名跡を継ぎ、高遠城主となって、諏訪勝頼を名乗り、翌年には、上野箕輪城(城主は長野業盛)の戦いで初陣を飾ります。
 1565年(永禄8)に信玄の長男(勝頼にとっては異母兄)だった武田義信が信玄と対立して幽閉、廃嫡されて継嗣となり、同年11月に今川義元に対抗するため武田との同盟関係を求めた織田信長の養女(龍勝院)と結婚しました。1566年(永禄9)に正室・竜勝院殿が長男・信勝を生み、1571年(元亀2)には高遠から甲府に移り、対外的にも信玄後継者としての行動を取り始めましたが、正室・竜勝院殿が亡くなっています。
 1572年(元亀3)に、父・信玄と共に西上作戦を開始し、徳川方の遠江二俣城を攻落、同年12月には、三方ヶ原の戦いで父・武田信玄と共に徳川・織田連合軍を破りました。翌1573年(元亀4)に武田信玄は、陣中で持病だった肺結核が悪化して亡くなり、家督を継ぎ、武田勝頼を名乗ることになります。
 同年に北条氏政と攻守同盟を結び、翌年2月に東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落とし、同年6月に遠江国の徳川領に侵入して高天神城を陥落(高天神城の戦い)させ、東遠江をほぼ平定、同年9月には、天竜川を挟んで家康と対陣、その後浜松城に迫り、浜松城下に放火しました。1575年(天正3)に三河国へ侵入し、奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始し、設楽原での織田信長・徳川家康連合軍との合戦(長篠の戦い)で大敗します。
 1577年(天正5)に北条氏政の妹と結婚したものの、翌年に越後の上杉謙信が死亡し、景勝と景虎の間に家督争いが起きると(御館の乱)、景勝側につき、北条氏との関係が悪化し、東駿河や西上野を攻撃されました。1581年(天正9)に織田・徳川連合軍を迎え討つため、新府韮崎城を築いて入城しましたが、家臣団内部でも対立が起こり、翌年には木曾義昌が寝返り、続いて親族の穴山信君も徳川家康に内通、織田信長・徳川家康らの反攻(甲州征伐)を受けます。
 翌年には、新府城に火を放って小山田信茂の岩殿城に向かったものの、裏切られて行く手を阻まれ、天目山の戦いにも敗れて、同年3月11日に妻子と共に数え年37歳で自害し、武田氏が滅亡しました。

〇武田勝頼関係略年表(日付は旧暦です)

・1546年(天文15年) 武田信玄の四男(母は側室の諏訪御料人)として生まれる
・1562年(永禄5年) 母の生家である諏訪家の名跡を継ぎ、高遠城主となって、諏訪勝頼を名乗る
・1563年(永禄6年) 上野箕輪城(城主は長野業盛)の戦いで初陣を飾る
・1564年(永禄7年) 諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納する
・1565年(永禄8年8月) 信玄の長男(勝頼にとっては異母兄)だった武田義信が信玄と対立して幽閉、廃嫡され、継嗣となる
・1565年(永禄8年11月) 今川義元に対抗するため武田との同盟関係を求めた織田信長の養女(龍勝院)と結婚する
・1566年(永禄9年) 正室・竜勝院殿が長男・信勝を生む
・1571年(元亀2年2月) 高遠から甲府に移り、対外的にも信玄後継者としての行動を取り始める
・1571年(元亀2年9月16日) 正室・竜勝院殿が亡くなる
・1572年(元亀3年11月) 徳川方の遠江二俣城を攻落する
・1572年(元亀3年12月) 三方ヶ原の戦いで父・武田信玄と共に徳川家康を破る
・1573年(元亀4年4月12日) 武田信玄は、西上の途中で持病だった肺結核が悪化して亡くなり、勝頼は家督を継ぎ、武田勝頼を名乗る
・1573年(元亀4年) 北条氏政と攻守同盟を結ぶ
・1574年(天正2年2月) 東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落とす
・1574年(天正2年6月) 遠江国の徳川領に侵入して高天神城を陥落させ、東遠江をほぼ平定する(高天神城の戦い)
・1574年(天正2年9月) 天竜川を挟んで家康と対陣、その後浜松城に迫り、浜松城下に放火する
・1575年(天正3年5月) 三河国へ侵入し、奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始する
・1575年(天正3年5月21日) 長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れる
・1575年(天正3年11月) 信長の下命を受けた嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城を陥落させられる
・1575年(天正3年12月24日) 徳川家康軍の包囲に耐えかねた遠江の二俣城が開城する
・1577年(天正5年1月) 北条氏政の妹と結婚する
・1578年(天正6年3月) 越後の上杉謙信が死亡し、景勝と景虎の間に家督争いが起きると(御館の乱)、景勝側につき、北条氏との関係が悪化する
・1579年(天正7年7月) 東上野に出兵し、敵対関係となった北条氏邦と対陣する
・1579年(天正7年9月13日) 駿河黄瀬川において北条氏政と対陣する
・1580年(天正8年9月) 東上野へ出陣し、利根川を越えると新田金山城を攻め、膳城を落とす
・1581年(天正9年) 織田・徳川連合軍を迎え討つため、新府韮崎城を築いて入城する
・1582年(天正10年2月) 信玄の娘婿だったはずの木曽義昌が織田側へ寝返る
・1582年(天正10年2月) 伊那谷に織田軍の攻撃を受ける
・1582年(天正10年3月2日) 高遠城が陥落する
・1582年(天正10年3月3日) 新府城に火を放って小山田信茂の岩殿城に向かう
・1582年(天正10年3月9日) 裏切った小山田信茂に鉄砲を撃ちかけられ行く手をはばまれる
・1582年(天正10年3月11日) 天目山の戦いに敗れ、妻子と共に数え年37歳で自害し、武田家が滅亡する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1643年(寛永20)江戸幕府が「田畑永代売買禁止令」を発布する(新暦4月29日)詳細
1834年(天保5)福井藩士・幕末の志士・思想家橋下佐内の誕生日(新暦4月19日)詳細


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