ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

suzukiharunobu01

 今日は、江戸時代中期の1770年(明和7)に、浮世絵師鈴木春信の亡くなった日ですが、新暦では7月7日となります。
 鈴木春信(すずき はるのぶ)は、江戸時代の浮世絵師で、錦絵の創始者で、美人風俗画で人気絵師となりました。1725年(享保10)に江戸で生まれたとされ、本姓穂積で、通称次兵衛と言いました。江戸神田白壁町に住み、絵は西村重長、あるいは西川祐信に師事したと伝えられます。
 1760年(宝暦10年3月)に上演の芝居に基づく細判紅摺絵の役者絵『市村亀蔵の曾我五郎と坂東三八の三保谷四郎』が初作とされ、この後、1764年(明和元)にかけては、細判役者絵や故事説話画、美人風俗画などの紅摺絵版画を発表しました。1765年(明和2)以降に開催されるようになった絵暦交換会に参加し、多色摺木版画の錦絵を始め、浮世絵版画技法上に画期的な貢献をします。
 やがて、独自の繊細優美な美人画風を形成、注目を集めるようになり、人気随一の流行絵師として画壇に君臨しました。また、『絵本花葛羅(はなかつら)』(1764年)、『青楼美人合(あわせ)』(1770年)などの絵本にも秀作を残しています。
 鋭い色彩感覚と流麗な描線など、新鮮な技法を駆使して、古典的な抒情や日常生活の心理的機微を当世風俗や実在するモデルを使って巧みに表現し、1,000点あまりの作例を遺しましたが、1770年(明和7年6月15日)に、江戸において、数え年46歳で亡くなっています。

〇鈴木晴信の代表的な作品

・『風流やつし七小町』(宝暦末頃)
・『座敷 (坐舗) 八景』八枚揃(1765年頃)
・『縁先物語』(1760年代後半)
・『雪中相合傘』(1760年代後半)
・『絵本花葛羅(はなかつら)』(1764年)
・『夕立』(1765年)
・『見立夕顔』(1766年)
・『絵本千代松』(1767年)
・『風流四季歌仙 二月水辺梅』(1768年頃)
・『絵本青楼美人合(あわせ)』(1770年)
・『おせんの茶屋』(1765~70年頃)
・『お百度参り』
・『藤原敏行朝臣 (秋風) 』

☆鈴木晴信関係略年表(日付は旧暦です)

・1725年〈享保10年〉 江戸で生まれる
・1760年(宝暦10年3月) この月上演の芝居に基づく細判紅摺絵の役者絵「市村亀蔵の曾我五郎と坂東三八の三保谷四郎」が初作とされる
・1764年(明和元年) 『絵本花葛羅(はなかつら)』を出す
・1765年(明和2年) 絵暦交換会に参加し、多色摺木版画の錦絵を始める、『夕立』を制作する
・1766年(明和3年) 『見立夕顔』を制作する
・1767年(明和4年)頃 『鞠と男女』を制作する、『絵本千代松』を出す
・1768年(明和5年)頃 『風流四季歌仙 二月水辺梅』を制作する
・1770年(明和7年) 『絵本青楼美人合』を出す
・1770年(明和7年6月15日) 江戸において、数え年46歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

707年(慶雲4)第42代天皇とされる文武天皇の命日(新暦7月18日)詳細
1242年(仁治3)鎌倉幕府の第3代執権北条泰時の命日(新暦7月14日)詳細
1705年(宝永2)歌人・俳人・和学者北村季吟の命日(新暦8月4日)詳細
1896年(明治29)明治三陸地震による大津波で死者約2万7千人の被害がが出る 詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

koumeitennou01

 今日は、江戸時代後期の1831年(天保2)に、第121代の天皇とされる孝明天皇の生まれた日ですが、新暦では7月22日となります。
 孝明天皇(こうめいてんのう)は、京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として生まれましたが、名は統仁(おさひと)と言いました。1835年(天保6)に親王宣下され、1840年(天保11)には、立太子の儀が行われ皇太子となります。
 1846年(弘化3)に、父・仁孝天皇が亡くなると践祚の儀を行い、翌年には即位礼をあげて、第121代とされる天皇となりました。黒船来航(1853年)、大地震(1854年)、内裏炎上(1854年)と不安の状況が続いたため、1855年(嘉永3年11月27日)に元号を安政と改元します。
 1858年(安政5)に上洛してきた老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めた時、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず、幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明、井伊直弼の幕政指導に不信を示して、戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達しました。1860年(万延元)に公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁による第14代将軍徳川家茂との婚姻を認め、1862年(文久2)には、島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣します。
 続いて、薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促、翌年には将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下しました。1863年(文久3)の「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放、翌年に再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じています。
 1865年(慶応元)に幕府の要請を受けて長州再征を許可、翌年の第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、征長の停止を幕府に指示しました。しかし、1866年(慶応2年12月25日)に京都において、36歳で急逝し、墓所は京都東山泉涌寺の後月輪東山陵(現在の京都市東山区今熊野)とされています。

〇孝明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1831年(天保2年6月14日) 京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として誕生する
・1835年(天保6年6月21日) 儲君治定される
・1835年(天保6年9月18日) 親王宣下される、
・1840年(天保11年3月14日) 立太子の儀が行われ皇太子となる
・1843年(天保14年) 侍講に中沼了三を迎える
・1846年(弘化3年2月13日) 父天皇の崩御のあとをうけて践祚の儀をあげる
・1846年(弘化3年8月29日) 対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書を出す
・1847年(弘化4年3月9日) 学習所(学習院)の開講式が行われる
・1847年(弘化4年4月25日) 石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈る
・1847年(弘化4年9月23日) 即位礼をあげる
・1847年(弘化4年9月27日) 将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀する
・1850年(嘉永3年4月8日) 「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じる
・1854年(嘉永7年4月6日)、内裏が炎上する
・1858年(安政5年2月) 上洛の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めたとき、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず
・1858年(安政5年6月) 幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明する
・1858年(安政5年8月) 井伊直弼の幕政指導に不信を示す、いわゆる戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達する
・1858年(安政5年12月) 鎖国の状態に引き戻すことを条件に「日米修好通商条約」調印を了承する
・1860年(万延元年) 公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁を認める
・1861年(文久元年) 長井雅楽の「航海遠略策」を受理する
・1862年(文久2年5月) 島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣する
・1862年(文久2年10月) 薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促する
・1863年(文久3年3月) 将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下す
・1863年(文久3年3月) 攘夷の成功を祈願するため、賀茂社に行幸する
・1863年(文久3年4月) 攘夷の成功を祈願するため、石清水社に行幸する
・1863年(文久3年8月) 「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放する
・1864年(元治元年1月) 再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じる
・1865年(慶応元年9月) 幕府の要請を受けて長州再征を許可する
・1865年(慶応元年10月) 徳川慶喜の強要を容れ条約を許可、ただし兵庫開港は不可とする
・1866年(慶応2年7月) 第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示する
・1866年(慶応2年12月25日) 京都において、痘瘡によって36歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1571年(元亀2)戦国武将・大名毛利元就の命日(新暦7月6日)詳細
1899年(明治32)小説家川端康成の誕生日詳細
1920年(大正9)北炭夕張炭鉱(北上坑)で爆発事故があり、死者・行方不明者209人を出す詳細
1992年(平成4)「環境と開発に関する国際連合会議」が「環境と開発に関するリオ宣言」などを採択して閉幕する詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

yamazakinotatakai01


 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破り、光秀は敗走中に土民に刺殺された日ですが、新暦では7月2日となります。
 山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、1582年(天正10年6月2日)の本能寺の変で織田信長が明智光秀の反逆のために亡くなると、毛利氏と和議を結んだ羽柴秀吉(豊臣)がその11日後に、山城国山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町付近)で明智光秀を破った戦いでした。本能寺の変での信長の死を聞いた秀吉は、毛利輝元の部将清水宗治の備中高松城の水攻め中だったものの、急遽毛利方と和を結び、軍勢を率いて東へ急行(備中大返し)します。
 2日後には自身の姫路城に戻って軍備を整え、その後摂津国富田(現在の大阪府高槻市)まで進軍しましたが、その間に高山右近、細川幽斎、筒井順慶らを味方につけ、12日には、富田で軍議を開きました。そして、秀吉勢約2万6千と光秀勢約1万6千は「円明寺川」(現在の小泉川)を挟んで陣を配置することとなります。
 翌13日早朝天王山で戦端が開かれたものの、数に勝る秀吉勢が優勢となり、敗色が濃厚となった光秀は、一時青竜寺城に退きました。しかし、伏見山崎に入った秀吉勢が激しく急追し、光秀は再挙をはかるため、居城坂本に逃れようとして、山城国小栗栖 (現在の京都市伏見区) を通過中に、土民に殺害されたとされます。
 この勝利で、秀吉の地位が一躍向上し、同年6月27日の「清洲会議」で信長の後継者としての地位を確立、天下統一へと歩みを進めていくこととなりました。

〇明智光秀とは?

 戦国時代から安土桃山時代の武将で、通称は十兵衛といいます。1528年(享禄元)頃に、美濃国で、土岐氏の一族の明智光綱の子として生まれたとされています。
 はじめは、越前の朝倉義景に仕え、足利義昭が朝倉氏を頼ってきたときに出仕し、その後、織田信長の家臣となって、義昭の上洛に尽力しました。そして、義昭や寺社、公家との交渉役をつとめて、名をあらわします。1571年(元亀2)には、近江坂本城主となり,各地を転戦して武功をあげ、1575年(天正3)に、その功により九州の名族惟任姓と日向守を与えられました。
 それから、丹波の攻略に着手し、1579年(天正7)に八上城の波多野秀治らを下して平定し、1580年(天正8)には、亀山城主となります。1582年(天正10)には、本能寺の変で主君の織田信長を討ったものの、11日後に山崎の戦いで羽柴秀吉らの連合軍に敗れ、逃走途中小栗栖で土民に殺されました。俗に、明智の「三日天下」と呼ばれています。

〇羽柴(豊臣)秀吉とは?

 安土桃山時代の武将・大名・天下人です。戦国時代の1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。
 7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。
 1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。
 1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。
 1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。
 1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇清洲会議とは?

 本能寺の変後、山崎の合戦を経て、安土桃山時代の1582年(天正10)6月27日に、織田氏諸将が清洲城(愛知県清須市)に集まって、織田家の跡目や遺領の配分を決めることを目的に行った会議です。集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとされています。
 織田信長の次男信雄と三男信孝が後継争いをしましたが、羽柴秀吉の強い主張で長男信忠の遺児三法師が後継者と決まりました。この会議の結果、柴田勝家の影響力が落ちて、羽柴秀吉の影響力が増し、織田家内部の勢力地図が替わることになります。
 その後、両者の対立が深まり、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながったと言われています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1931年(昭和6)医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する 詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nougyoukindaika01

 今日は、昭和時代中期の1961年(昭和36)に、「農業基本法」(昭和36年法律第127号)が公布・施行された日です。
 「農業基本法(のうぎょうきほんほう)」は、日本農業の農業の近代化・合理化をめざす農政の基本的構想を示した法律(昭和36年法律第127号)で、同日に施行されました。戦後日本の高度経済成長を背景に、農業生産の転換を図るとともに、農家戸数の減少の中で残存農家の経営規模を拡大して自立経営の定着をめざした「農業近代化」を図り、一方では農村から大量の労働力を引き出すことによる産業構造の転換を促進することを狙ったものです。
 国の農業に関する政策の目標として、「他産業との生産性の格差が是正されるように農業の生産性が向上すること及び農業従事者が所得を増大して他産業従事者と均衡する生活を営むこと」(第1条)を掲げ、農業に対する国の施策、農業生産、農産物などの価格および流通、農業構造の改善、農業行政機関および農業団体、農政審議会などについて規定していました。しかし、きわめて抽象的な規定にとどまり、米をはじめとする農産物の過剰問題や地価の高騰、若年労働力の流出、兼業農家の急増などにより、規模拡大や自立経営の育成は進展せず、基本法農政は破綻したとされます。
 農業構造の変動や農産物貿易の自由化などに伴い、GATTウルグアイラウンド合意を受けて、世界貿易機関(WHO)の農業協定に沿う形で、1999年(平成11)7月16日に「食料・農業・農村基本法」(新農業基本法)へ移行しました。
 以下に、「農業基本法」(昭和36年6月12日法律第127号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「農業基本法」(昭和36年法律第127号) 1961年(昭和36)6月12日公布・施行

前文​

 わが国の農業は、長い歴史の試練を受けながら、国民食糧その他の農産物の供給、資源の有効利用、国土の保全、国内市場の拡大等国民経済の発展と国民生活の安定に寄与してきた。また、農業従事者は、このような農業のにない手として、幾多の困苦に堪えつつ、その務めを果たし、国家社会及び地域社会の重要な形成者として国民の勤勉な能力と創造的精神の源泉たる使命を全うしてきた。
 われらは、このような農業及び農業従事者の使命が今後においても変わることなく、民主的で文化的な国家の建設にとつてきわめて重要な意義を持ち続けると確信する。
 しかるに、近時、経済の著しい発展に伴なつて農業と他産業との間において生産性及び従事者の生活水準の格差が拡大しつつある。他方、農産物の消費構造にも変化が生じ、また、他産業への労働力の移動の現象が見られる。
 このような事態に対処して、農業の自然的経済的社会的制約による不利を補正し、農業従事者の自由な意志と創意工夫を尊重しつつ、農業の近代化と合理化を図つて、農業従事者が他の国民各層と均衡する健康で文化的な生活を営むことができるようにすることは、農業及び農業従事者の使命にこたえるゆえんのものであるとともに、公共の福祉を念願するわれら国民の責務に属するものである。
 ここに、農業の向うべき新たなみちを明らかにし、農業に関する政策の目標を示すため、この法律を制定する。

第一章 総則​[編集]

 (国の農業に関する政策の目標)

第一条 国の農業に関する政策の目標は、農業及び農業従事者が産業、経済及び社会において果たすべき重要な使命にかんがみて、国民経済の成長発展及び社会生活の進歩向上に即応し、農業の自然的経済的社会的制約による不利を補正し、他産業との生産性の格差が是正されるように農業の生産性が向上すること及び農業従事者が所得を増大して他産業従事者と均衡する生活を営むことを期することができることを目途として、農業の発展と農業従事者の地位の向上を図ることにあるものとする。

 (国の施策)

第二条 国は、前条の目標を達成するため、次の各号に掲げる事項につき、その政策全般にわたり、必要な施策を総合的に講じなければならない。
 一 需要が増加する農産物の生産の増進、需要が減少する農産物の生産の転換、外国産農産物と競争関係にある農産物の生産の合理化等農業生産の選択的拡大を図ること。
 二 土地及び水の農業上の有効利用及び開発並びに農業技術の向上によつて農業の生産性の向上及び農業総生産の増大を図ること。
 三 農業経営の規模の拡大、農地の集団化、家畜の導入、機械化その他農地保有の合理化及び農業経営の近代化(以下「農業構造の改善」と総称する。)を図ること。
 四 農産物の流通の合理化、加工の増進及び需要の増進を図ること。
 五 農業の生産条件、交易条件等に関する不利を補正するように農産物の価格の安定及び農業所得の確保を図ること。
 六 農業資材の生産及び流通の合理化並びに価格の安定を図ること。
 七 近代的な農業経費を担当するのにふさわしい者の養成及び確保を図り、あわせて農業従事者及びその家族がその希望及び能力に従つて適当な職業に就くことができるようにすること。
 八 農村における交通、衛生、文化等の環境の整備、生活改善、婦人労働の合理化等により農業従事者の福祉の向上を図ること。
2 前項の施策は、地域の自然的経済的社会的諸条件を考慮して講ずるものとする。

 (地方公共団体の施策)

第三条 地方公共団体は、国の施策に準じて施策を講ずるように努めなければならない。

 (財政上の措置等)

第四条 政府は、第二条第一項の施策を実施するため必要な法制上及び財政上の措置を講じなければならない。
2 政府は、第二条第一項の施策を講ずるにあたつては、必要な資金の融通の適正円滑化を図らなければならない。

 (農業従事者等の努力の助長)

第五条 国及び地方公共団体は、第二条第一項又は第三条の施策を講ずるにあたつては、農業従事者又は農業に関する団体がする自主的な努力を助長することを旨とするものとする。

 (農業の動向に関する年次報告)

第六条 政府は、毎年、国会に、農業の動向及び政府が農業に関して講じた施策に関する報告を提出しなければならない。
2 前項の報告には、農業の生産性及び農業従事者の生活水準の動向並びにこれらについての政府の所見が含まれていなければならない。
3 第一項の報告の基礎となる統計の利用及び前項の政府の所見については、農政審議会の意見をきかなければならない。

 (施策を明らかにした文書の提出)

第七条 政府は、毎年、国会に、前条第一項の報告に係る農業の動向を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書を提出しなければならない。

第二章 農業生産​[編集]

(需要及び生産の長期見通し)

第八条 政府は、重要な農産物につき、需要及び生産の長期見通しをたて、これを公表しなければならない。この場合において、生産の長期見通しについては、必要に応じ、主要な生産地域についてもたてるものとする。
2 政府は、需要事情その他の経済事情の変動により必要があるときは、前項の長期見通しを改定するものとする。
3 政府は、第一項の長期見通しをたて、又はこれを改定するには、農政審議会の意見をきかなければならない。

 (農業生産に関する施策)

第九条 国は、農業生産の選択的拡大、農業の生産性の向上及び農業総生産の増大を図るため、前条第一項の長期見通しを参酌して、農業生産の基盤の整備及び開発、農業技術の高度化、資本装備の増大、農業生産の調整等必要な施策を講ずるものとする。

 (農業災害に関する施策)

第十条 国は、災害によつて農業の再生産が阻害されることを防止するとともに、農業経営の安定を図るため、災害による損失の合理的な補てん等必要な施策を講ずるものとする。

第三章 農産物等の価格及び流通​[編集]

(農産物の価格の安定)

第十一条 国は、重要な農産物について、農業の生産条件、交易条件等に関する不利を補正する施策の重要な一環として、生産事情、需給事情、物価その他の経済事情を考慮して、その価格の安定を図るため必要な施策を講ずるものとする。
2 政府は、定期的に、前項の施策につき、その実施の結果を農業生産の選択的拡大、農業所得の確保、農産物の流通の合理化、農産物の需要の増進、国民消費生活の安定等の見地から総合的に検討し、その結果を公表しなければならない。
3 政府は、前項の規定による検討をするにあたつては、農政審議会の意見をきかなければならない。

 (農産物の流通の合理化等)

第十二条 国は、需要の高度化及び農業経営の近代化を考慮して農産物の流通の合理化及び加工の増進並びに農業資材の生産及び流通の合理化を図るため、農業協同組合又は農業協同組合連合会(以下第十七条までにおいて「農業協同組合」と総称する。)が行なう販売、購買等の事業の発達改善、農産物取引の近代化、農業関連事業の振興、農業協同組合が出資者等となつている農産物の加工又は農業資材の生産の事業の発達改善等必要な施策を講ずるものとする。

 (輸入に係る農産物との関係の調整)

第十三条 国は、農産物(加工農産物を含む。以下同じ。)につき、輸入に係る農産物に対する競争力を強化するため必要な施策を講ずるほか、農産物の輸入によつてこれと競争関係にある農産物の価格が著しく低落し又は低落するおそれがあり、その結果、その生産に重大な支障を与え又は与えるおそれがある場合において、その農産物につき、第十一条第一項の施策をもつてしてもその事態を克服することが困難であると認められるとき又は緊急に必要があるときは、関税率の調整、輸入の制限その他必要な施策を講ずるものとする。

 (農産物の輸出の振興)

第十四条 国に、農産物の輸出を振興するため、輸出に係る農産物の競争力を強化するとともに、輸出取引の秩序の確立、市場調査の充実、普及宣伝の強化等必要な施策を講ずるものとする。

第四章 農業構造の改善等​[編集]

(家族農業経営の発展と自立経営の育成)

第十五条 国は、家族農業経営を近代化してその健全な発展を図るとともに、できるだけ多くの家族農業経営が自立経営(正常な構成の家族のうちの農業従事者が正常な能率を発揮しながらほぼ完全に就業することができる規模の家族農業経営で、当該農業従事者が他産業従事者と均衡する生活を営むことができるような所得を確保することが可能なものをいう。以下同じ。)になるように育成するため必要な施策を講ずるものとする。

 (相続の場合の農業経営の細分化の防止)

第十六条 国は、自立経営たる又はこれになろうとする家族農業経営等が細分化することを防止するため、遺産の相続にあたつて従前の農業経営をなるべく共同相続人の一人が引き継いで担当することができるように必要な施策を講ずるものとする。

 (協業の助長)

第十七条 国は、家族農業経営の発展、農業の生産性の向上、農業所得の確保等に資するため、生産行程についての協業を助長する方策として、農業協同組合が行なう共同利用施設の設置及び農作業の共同化の事業の発達改善等必要な施策を講ずるとともに、農業従事者が農地についての権利又は労力を提供し合い、協同して農業を営むことができるように農業従事者の協同組織の整備、農地についての権利の取得の円滑化等必要な施策を講ずるものとする。

 (農地についての権利の設定又は移転の円滑化)

第十八条 国は、農地についての権利の設定又は移転が農業構造の改善に資することとなるように、農業協同組合が農地の貸付け又は売渡しに係る信託を引き受けることができるようにするとともに、その信託に係る事業の円滑化を図る等必要な施策を講ずるものとする。

 (教育の事業の充実等)

第十九条 国は、近代的な農業経営を担当するのにふさわしい者の養成及び確保並びに農業経営の近代化及び農業従事者の生活改善を図るため、教育、研究及び普及の事業の充実等必要な施策を講ずるものとする。

 (就業機会の増大)

第二十条 国は、家族農業経営に係る家計の安定に資するとともに農業従事者及びその家族がその希望及び能力に従つて適当な職業に就くことができるようにするため、教育、職業訓練及び職業紹介の事業の充実、農村地方における工業等の振興、社会保障の拡充等必要な施策を講ずるものとする。

 (農業構造改善事業の助成等)

第二十一条 国は、農業生産の基盤の整備及び開発、環境の整備、農業経営の近代化のための施設の導入等農業構造の改善に関し必要な事業が総合的に行なわれるように指導、助成を行なう等必要な施策を講ずるものとする。

 (農業構造の改善と林業)

第二十二条 国は、農業構造の改善に係る施策を講ずるにあたつては、農業を営む者があわせて営む林業につき必要な考慮を払うようにするものとする。

第五章 農業行政機関及び農業団体​[編集]

(農業行政に関する組織の整備及び運営の改善)

第二十三条 国及び地方公共団体は、第二条第一項又は第三条の施策を講ずるにつき、相協力するとともに、行政組織の整備及び行政運営の改善に努めるものとする。

 (農業団体の整備)

第二十四条 国は、農業の発展及び農業従事者の地位の向上を図ることができるように農業に関する団体の整備につき必要な施策を講ずるものとする。

第六章 農政審議会​[編集]

(設置)

第二十五条 総理府に、附属機関として、農政審議会(以下「審議会」という。)を置く。

 (権限)

第二十六条 審議会は、この法律の規定によりその権限に属させられた事項を処理するほか、内閣総理大臣又は関係各大臣の諮問に応じ、この法律の施行に関する重要事項を調査審議する。
2 審議会は、前項に規定する事項に関し内閣総理大臣又は関係各大臣に意見を述べることができる。

 (組織)

第二十七条 審議会は、委員十五人以内で組織する。
2 委員は、前条第一項に規定する事項に関し学識経験のある者のうちから、内閣総理大臣が任命する。
3 委員は、非常勤とする。

 (資料の提出等の要求)

第二十八条 審議会は、その所掌事務を遂行するため必要があると認めるときは、関係行政機関の長に対し、資料の提出、意見の開陳、説明その他必要な協力を求めることができる。

 (庶務)

第二十九条 審議会の庶務は、農林大臣官房において処理する。

 (委任規定)

第三十条 この法律に定めるもののほか、審議会の組織及び運営に関し必要な事項は、政令で定める。

附則​[編集]

1 この法律は、公布の日から施行する。
2 総理府設置法(昭和二十四年法律第百二十七号)の一部を次のように改正する。

  第十五条第一項の表中

「 産業災害防止対策審議会  内閣総理大臣の諮問に応じて産業災害防止対策に関する重要事項を調査審議すること。」 
  を
「産業災害防止対策審議会  内閣総理大臣の諮問に応じて産業災害防止対策に関する重要事項を調査審議すること。」 
農政審議会  農業基本法(昭和三十六年法律第百二十七号)の規定によりその権限に属せしめられた事項を行なうこと。 
  に改める。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1761年(宝暦11)江戸幕府第9代将軍徳川家重の命日(新暦7月13日)詳細
1867年(慶応3)坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船の中で「船中八策」を著す(新暦7月13日)詳細
1910年(明治41)本州の宇野と四国の高松の間の鉄道連絡船宇高連絡船)が運航開始する詳細
1965年(昭和40)家永教科書裁判の第一次訴訟が提訴される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

dai1kokuritsuginkou01

 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、前年制定の「国立銀行条例」に基づき、東京に日本初の商業銀行・第一国立銀行(後の第一銀行、現在のみずほ銀行)が設立された日です。
 第一国立銀行(だいいちこくりつぎんこう)は、1872年(明治5年11月15日)に、「国立銀行条例」(明治5年太政官布告第349号)に基づいて、三井、小野両組が、井上馨、渋沢栄一の勧めで、共同出資に踏み切って、東京に設立した日本初の民間銀行でした。設立時の資本金は250万円で、設立と共に渋沢が総監役として同行の経営に参画、本店を東京市日本橋区兜町一番地に設置し、1873年(明治6)8月1日より業務を開始します。
 しかし、1875年(明治8)に小野組が破綻して経営危機になると渋沢が頭取となって、再建に当たりました。この後、渋沢の指導の下に、国立銀行の指導的地位に立つと共に、金融界近代化の先駆けとなり、王子製紙会社など近代工業の育成にも力を尽くし、1878年(明治11)には朝鮮にも進出しています。
 しかし、「国立銀行条例」による営業免許期間終了に伴い、1896年(明治29)に一般銀行に改組して第一銀行となり、五大銀行の一角を占めました。その後、太平洋戦争中のの1943年(昭和18)に、当時の国策に即して三井銀行と合併して帝国銀行となり、翌年には十五銀行を合併して、日本最大の普通銀行となります。
 戦後は、金融機関の再建整備に際し、1948年(昭和23)には再度分割し第一銀行として再出発、1971年(昭和46)に日本勧業銀行と合併し第一勧業銀行となるまで存続しました。それからは、2002年(平成14)4月に、富士銀行、日本興業銀行と分割および合併し、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行に統合・再編されています。

〇国立銀行とは?

 1872年(明治5年11月15日)に制定された「国立銀行条例」に基づき、政府発行の不換紙幣の整理と殖産興業資金の供給を目的に設立された民間銀行でした。
 明治新政府は明治維新当初の戊辰戦争等で、各種の政府紙幣を乱発し、価値が低下したことがあり、それを回収し、代って兌換銀行券を流通させて通貨価値を安定させ、殖産興業資金を供給する迫られます。そこで、アメリカのナショナル‐バンク(National Bank:連邦政府認可の全国銀行)を範に、「国立銀行条例」(明治5年太政官布告第349号)を制定しましたが、①株式会社組織をとる、②資本金の60%を政府紙幣で出資、これを政府に納付して、同額の金札引換公債を受領し、同公債を抵当に国立銀行券を発行する、③資本金の40%を正貨で出資、銀行券の兌換準備にあてる、④発券業務のほか、預金、貸出、為替などの通常の銀行業務を営む、などが規定されました。
 これに基づいて、まず、渋沢栄一らが1872年(明治6)6月11日に日本初の国立銀行である第一国立銀行を東京に設立したものの、続いて設立されたのは、第二(横浜)、第三(東京)、第四(新潟)の併せて4行にすぎず、政府紙幣回収の効果はあまりあがらず、営業不振におちいります。そのため、1876年(明治9)8月に「国立銀行条例」を改正(明治9年太政官布告第106号)して、正貨兌換を政府紙幣兌換に改めました。
 この結果、多数の国立銀行が次々と設立され、国立銀行券の発行高は増加します。ところが、1877年(明治10)の西南戦争の軍費として政府紙幣が増発されインフレーションを招いたので、政府は国立銀行の総資本額を限定するとともに、1879年(明治12)の第百五十三国立銀行の設立を最後に国立銀行設立免許を停止しました。
 そして、1882年(明治15)の日本銀行設立と共に銀行券の発行を同行のみに限定することとし、翌年には「国立銀行条例」を再改正し、営業年限は開業日より20年、発行紙幣は営業年内に回収、以後は普通銀行に転換すべきものとします。これによって国立銀行は、1899年(明治32)までに「銀行条例」 (1890年公布) に基づく普通銀行に移行しました。
 以下に、当時設立された国立銀行を一覧にしましたので、ご参照下さい。

☆国立銀行の一覧​(153行)

・第一国立銀行(東京)→第一銀行[現在のみずほ銀行]  
・第二国立銀行(横浜)→第二銀行[現在の横浜銀行] 
・第三国立銀行(東京)→第三銀行[現在のみずほ銀行] 
・第四国立銀行(新潟)→新潟銀行[現在の第四北越銀行] 
・第五国立銀行(大阪⇒東京)→第五銀行[現在の三井住友銀行] 
・第六国立銀行(福島⇒東京)→肥後銀行[現在のみずほ銀行] 
・第七国立銀行(高知)→第七銀行[現在の四国銀行]
・第八国立銀行(豊橋)→1886年に第百三十四国立銀行に合併[現在の三菱UFJ銀行]  
・第九国立銀行(熊本)→第九銀行[現在のみずほ銀行]  
・第十国立銀行(山梨)→第十銀行[現在の山梨中央銀行]   
・第十一国立銀行(名古屋)→十一銀行 1903年に任意解散
・第十二国立銀行(金沢⇒富山)→十二銀行[現在の北陸銀行]
・第十三国立銀行(大阪)→1897年に鴻池銀行に業務継承[現在の三菱UFJ銀行]
・第十四国立銀行(松本)→第十四銀行 1918年(1919年とも)に破産
・第十五国立銀行(東京)→十五銀行[現在の三井住友銀行]
・第十六国立銀行(岐阜)→十六銀行
・第十七国立銀行(福岡⇒大阪⇒福岡)→十七銀行[現在の福岡銀行]  
・第十八国立銀行(長崎)→十八銀行[現在の十八親和銀行] 
・第十九国立銀行(上田)→第十九銀行[現在の八十二銀行] 
・第二十国立銀行(東京)→二十銀行[現在のみずほ銀行]
・第二十一国立銀行(長浜)→二十一銀行[現在の滋賀銀行] 
・第二十二国立銀行(岡山)→二十二銀行[現在のみずほ銀行] 
・第二十三国立銀行(大分)→二十三銀行[現在の大分銀行]
・第二十四国立銀行(飯山)→1882年に閉鎖。 
・第二十五国立銀行(小浜)→二十五銀行[現在の三菱UFJ銀行]
・第二十六国立銀行(大阪)→1883年に営業停止、閉鎖。1885年に解散。 
・第二十七国立銀行(東京)→二十七銀行 1920年に東京渡辺銀行に改称。1928年に破産宣告。 
・第二十八国立銀行(浜松)→1889年に第三十五国立銀行に合併[現在の静岡銀行]
・第二十九国立銀行(川ノ石)→第二十九銀行[現在の伊予銀行] 
・第三十国立銀行(東京)→三十銀行[現在の三菱UFJ銀行]  
・第三十一国立銀行(若松⇒津川)→1888年に第百四十八国立銀行に合併[現在の三菱UFJ銀行]
・第三十二国立銀行(大阪)→浪速銀行[現在の三井住友銀行] 
・第三十三国立銀行(東京)→資本の焦げ付きにより破綻、1892年3月22日に営業停止、5月19日閉鎖。 
・第三十四国立銀行(大阪)→三十四銀行[現在の三菱UFJ銀行]
・第三十五国立銀行(静岡)→三十五銀行[現在の静岡銀行] 
・第三十六国立銀行(八王子)→第三十六銀行[現在のみずほ銀行] 
・第三十七国立銀行(高知)→高知銀行[現在の四国銀行] 
・第三十八国立銀行(姫路)→三十八銀行[現在の三菱UFJ銀行]
・第三十九国立銀行(前橋)→三十九銀行[現在の群馬銀行] 
・第四十国立銀行(館林)→四十銀行[現在のみずほ銀行]  
・第四十一国立銀行(栃木)→四十一銀行[現在のみずほ銀行] 
・第四十二国立銀行(大阪)→四十二銀行 1901年に任意解散。
・第四十三国立銀行(和歌山)→四十三銀行 1930年に6行に分割買収される。
・第四十四国立銀行(東京)→1882年に第三国立銀行に合併[現在のみずほ銀行] 
・第四十五国立銀行(東京)→1898年に営業満期解散。 
・第四十六国立銀行(多治見⇒名古屋)→愛知実業銀行 1927年に愛知農商銀行に買収され1933年に破産。 
・第四十七国立銀行(八幡⇒富山)→第四十七銀行[現在の北陸銀行] 
・第四十八国立銀行(秋田)→第四十八銀行[現在の秋田銀行]
・第四十九国立銀行(京都)→第四十九銀行[現在のみずほ銀行]
・第五十国立銀行(土浦)→土浦五十銀行[現在の常陽銀行] 
・第五十一国立銀行(岸和田)→五十一銀行[現在の三井住友銀行] 
・第五十二国立銀行(松山)→五十二銀行[現在の伊予銀行] 
・第五十三国立銀行(津和野)→五十三銀行[現在の山陰合同銀行]  
・第五十四国立銀行(沼津)→1882年に第三十五国立銀行に合併[現在の静岡銀行]
・第五十五国立銀行(出石)→五十五銀行[現在の三井住友銀行] 
・第五十六国立銀行(明石)→五十六銀行[現在の三井住友銀行]
・第五十七国立銀行(武生)→第五十七銀行[現在の北陸銀行]  
・第五十八国立銀行(大阪)→第五十八銀行[現在のみずほ銀行] 
・第五十九国立銀行(弘前)→第五十九銀行[現在の青森銀行] 
・第六十国立銀行(東京)→1898年に営業満期解散。 
・第六十一国立銀行(久留米)→六十一銀行[現在の三井住友銀行]
・第六十二国立銀行(水戸)→水戸六十二銀行[現在の常陽銀行]  
・第六十三国立銀行(松代⇒稲荷山)→六十三銀行[現在の八十二銀行]  
・第六十四国立銀行(大津)→大津銀行[現在のみずほ銀行]
・第六十五国立銀行(鳥取⇒兵庫)→第六十五銀行[現在の三井住友銀行] 
・第六十六国立銀行(尾ノ道)→第六十六銀行[現在の広島銀行] 
・第六十七国立銀行(鶴岡)→六十七銀行[現在の荘内銀行] 
・第六十八国立銀行(郡山)→六十八銀行[現在の南都銀行] 
・第六十九国立銀行(長岡)→六十九銀行[現在の第四北越銀行] 
・第七十国立銀行(淀)→七十銀行[現在の足利銀行銀行] 
・第七十一国立銀行(村上)→村上銀行[現在の第四北越銀行]
・第七十二国立銀行(酒田⇒佐賀)→佐賀銀行 1913年に古賀銀行に改称。1933年に任意解散。 
・第七十三国立銀行(兵庫⇒大阪)→第七十三銀行 1931年に業務廃止。 
・第七十四国立銀行(横浜)→横浜七十四銀行[現在の横浜銀行] 
・第七十五国立銀行(金沢)→1886年に第四十五国立銀行に合併。 
・第七十六国立銀行(高須)→七十六銀行[現在の大垣共立銀行] 
・第七十七国立銀行(仙台)→七十七銀行
・第七十八国立銀行(中津⇒八王子)→八王子第七十八銀行 1909年に任意解散。 
・第七十九国立銀行(松江⇒大阪)→第七十九銀行 1901年に破産。 
・第八十国立銀行(高知)→第八十銀行[現在の四国銀行]  
・第八十一国立銀行(山形)→1897年に両羽銀行に業務継承。[現在の山形銀行] 
・第八十二国立銀行(鳥取⇒東京)→第八十二銀行[現在のみずほ銀行] 
・第八十三国立銀行(上野)→第八十三銀行[現在の百五銀行] 
・第八十四国立銀行(大聖寺⇒東京)→八十四銀行[現在のみずほ銀行]
・第八十五国立銀行(川越)→第八十五銀行[現在の埼玉りそな銀行] 
・第八十六国立銀行(高梁)→八十六銀行[現在の中国銀行] 
・第八十七国立銀行(大橋⇒門司)→第八十七銀行[現在のみずほ銀行]
・第八十八国立銀行(一ノ関)→第八十八銀行[現在の岩手銀行]  
・第八十九国立銀行(徳島)→八十九銀行 1909年に任意解散。 
・第九十国立銀行(盛岡)→第九十銀行[現在の岩手銀行]
・第九十一国立銀行(福井)→第九十一銀行[現在の北陸銀行] 
・第九十二国立銀行(福井)→第九十二銀行 1921年に京和貯蓄銀行に改称。1930年に消滅。 
・第九十三国立銀行(三春)→三春銀行[現在の東邦銀行] 
・第九十四国立銀行(龍野)→九十四銀行[現在の三井住友銀行] 
・第九十五国立銀行(東京)→九十五銀行[現在の三菱UFJ銀行]  
・第九十六国立銀行(柳河)→柳河銀行[現在の福岡銀行] 
・第九十七国立銀行(小城)→1899年に満期解散。 
・第九十八国立銀行(千葉)→第九十八銀行[現在の千葉銀行] 
・第九十九国立銀行(平戸)→九十九銀行[現在の十八親和銀行] 
・第百国立銀行(東京)→第百銀行[現在の三菱UFJ銀行]  
・第百一国立銀行(梁川)→第百一銀行 1931年に営業免許取消、破産宣告。 
・第百二国立銀行(厳原⇒長崎)→百二銀行 1897年に任意解散。 
・第百三国立銀行(岩国⇒神戸)→1897年に日本商業銀行に買収[現在のみずほ銀行]
・第百四国立銀行(水戸)→水戸百四銀行[現在の常陽銀行] 
・第百五国立銀行(津)→百五銀行
・第百六国立銀行(佐賀)→佐賀百六銀行[現在の三井住友銀行]
・第百七国立銀行(福島)→第百七銀行 1934年に任意解散。 
・第百八国立銀行(須賀川)→1883年に営業停止、閉鎖。1887年に解散。 
・第百九国立銀行(佐伯)→百九銀行[現在の大分銀行] 
・第百十国立銀行(山口⇒下ノ関)→百十銀行[現在の山口銀行]
・第百十一国立銀行(京都)→1898年に命令により閉鎖。 
・第百十二国立銀行(東京)→第百十二銀行 1900年に任意解散。 
・第百十三国立銀行(函館)→百十三銀行[現在の北洋銀行] 
・第百十四国立銀行(高松)→高松百十四銀行[現在の百十四銀行] 
・第百十五国立銀行(亀山⇒大津)→湖南銀行 1923年に日高銀行に合併、1937年に業務廃止。 
・第百十六国立銀行(新発田)→新発田銀行[現在の第四北越銀行] 
・第百十七国立銀行(飯田 百十七銀行[現在の八十二銀行] 
・第百十八国立銀行(東京)→1880年に第百三十六国立銀行に合併[現在のみずほ銀行]
・第百十九国立銀行(東京)→1895年に設置された三菱合資会社銀行部に業務継承[現在の三菱UFJ銀行]  
・第百二十国立銀行(古河)→第百二十銀行 1930年に解散。 
・第百二十一国立銀行(大阪)→百二十一銀行 [現在の三菱UFJ銀行]  
・第百二十二国立銀行(桑名)→百二十二銀行 1905年に任意解散。 
・第百二十三国立銀行(富山)→1884年に第十二国立銀行に合併[現在の北陸銀行] 
・第百二十四国立銀行(見附)→1882年に第三十五国立銀行に合併[現在の静岡銀行]  
・第百二十五国立銀行(米沢)→第百二十五銀行 1927年に第百七銀行に買収。 
・第百二十六国立銀行(大阪)→1882年に営業停止、閉鎖。1885年に解散。 
・第百二十七国立銀行(丸亀⇒高知)→1896年に第三十七国立銀行に合併[現在の四国銀行] 
・第百二十八国立銀行(八幡)→百二十八銀行 1936年に業務廃止、営業の一部を十六銀行に譲渡。 
・第百二十九国立銀行(大垣)→1896年に大垣共立銀行に業務継承[現在の大垣共立銀行]
・第百三十国立銀行(大阪)→百三十銀行[現在のみずほ銀行] 
・第百三十一国立銀行(大庭⇒加納)→1881年に第三十二国立銀行に合併[現在の三井住友銀行]
・第百三十二国立銀行(保土ヶ谷⇒東京)→百三十二銀行 1908年に任意解散。 
・第百三十三国立銀行(彦根)→百三十三銀行 1933年に八幡銀行と合併し滋賀銀行。 滋賀銀行 
・第百三十四国立銀行(名古屋)→百三十四銀行 1902年に任意解散。
・第百三十五国立銀行(宇土)→九州商業銀行[現在の肥後銀行] 
・第百三十六国立銀行(半田⇒大阪)→第百三十六銀行[現在のみずほ銀行] 
・第百三十七国立銀行(篠山)→第百三十七銀行[現在の三井住友銀行]
・第百三十八国立銀行(二俣)→百三十八銀行[現在の静岡銀行] 
・第百三十九国立銀行(高田 百三十九銀行 1943年に第四銀行に買収[現在の第四北越銀行]
・第百四十国立銀行(山形)→1881年に第六十七国立銀行に合併[現在の荘内銀行] 
・第百四十一国立銀行(西条)→西条銀行 1928年に藝備銀行に合併[現在の広島銀行]
・第百四十二国立銀行(銚子)→1881年に第三十二国立銀行に合併[現在の三井住友銀行] 
・第百四十三国立銀行(八街)→1880年に第三十国立銀行に合併[現在の三菱UFJ銀行] 
・第百四十四国立銀行(飫肥)→飫肥銀行 11928年に合併により日向中央銀行、1937年に任意解散。 
・第百四十五国立銀行(延岡)→延岡銀行[現在の宮崎銀行] 
・第百四十六国立銀行(広島)→廣島銀行[現在の広島銀行] 
・第百四十七国立銀行(鹿児島)→第百四十七銀行[現在の鹿児島銀行]  
・第百四十八国立銀行(大阪)→1898年に山口銀行に業務継承[現在の三菱UFJ銀行] 
・第百四十九国立銀行(函館)→1885年に第百十九国立銀行に合併[現在の三菱UFJ銀行] 
・第百五十国立銀行(八戸⇒輪島⇒東京)→第百五十銀行 1902年に東北銀行に改称。1904年に破産。 
・第百五十一国立銀行(熊本)→百五十一銀行 1902年に任意解散。 
・第百五十二国立銀行(沖縄⇒鹿児島⇒東京⇒大阪)→第百五十二銀行 1901年に解散。 
・第百五十三国立銀行(京都)→1886年に第百十一国立銀行に合併。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(慶長20)武将・大名・茶人・織部流茶道の祖古田重然(織部)が豊臣方内通の罪に問われ自刃する(新暦7月6日)詳細
1951年(昭和26)産業教育振興法」が公布される詳細
1969年(昭和44)東京国立近代美術館」(現在の本館)が開館する詳細
1975年(昭和50)考古学者宮坂英弌の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ